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働かないで笑った、文学フリマ大阪【出版社をつくろう】

丸メガネと下駄を身に付けた文豪気取りの文系大学生が、陽キャたちが主役の学祭では満喫できなかった青春を取り戻そうとして、それでもモジモジと不器用に気恥ずかしさを取り繕いながら、「べつに、本を売りに来たわけじゃありませんけど?」みたいな顔をしてブスッとブースに座り続ける。そして、似たようなビジュアルの大学生たちが無言でパラりと本をめくっては通り過ぎていくお通夜みたいなイベント

・・・これが僕が文学フリマに抱いていたイメージである。

そのため僕はさほど期待はしていなかった。11時から17時までお通夜会場に座り続けて、終わったらなけなしの売上でしっぽりとセンベロする・・・そんな一日を予期していた。それに、なんといっても『14歳からのアンチワーク哲学』は高い。ほかのブースの本は500円とかその程度が相場であり、100円とか200円の本もあった。1000円を超えると「ちょっと高いなぁ」という印象である。そんな中で僕の本は1980円。「せいぜい10冊売れれば良い方だろう」と、僕はKPIを設定した。もちろん、心の片隅では「ひょっとしたら、バカ売れするかも・・・」という感覚が見え隠れしていたわけだが、それを直視してしまうと後から自分が傷ついてしまう。だから見て見ぬフリをすることを決めたのである。

さて、その結果はどうだったのか?

結論から言えば大成功だった。『14歳からのアンチワーク哲学』は30冊持参したうち23冊が売れた。『ニートマガジン』もvol1とvol2それぞれ9冊ずつ完売。無料配布した『アンチワークマン』30冊や『労働廃絶論』20冊も完売。労働撲滅シールもたくさん買ってもらった。

実際の雰囲気は、イメージ通りのお通夜っぽい光景も稀には見られたが、そう多くはなかった。客も出店者も浮足立っている、近所のお祭りのような雰囲気だった。しかもブースは300とか400とか? 来場は4000人とか? ともかく、かなりの規模である。

僕のブースの前にも、たくさんの人が集まってくれた。

低予算。高パッションのブースである。
よくよく見ると、だいぶいかがわしいブースである。
あとから🍡さんが持参してくれたアンチワークマンも並べた。

今回のテーマは(今回に限った話ではないが)労働撲滅ワンイシューである。小説、詩、哲学・・・こうしたジャンルの出店者は、直接的な表現を避け、抽象的で文学的な装飾をほどこし、「働きたくない人のための出版社です」みたいな下卑たストレートなキャッチコピーを使うようなことはない。だからこそ、こうしたメッセージがはっきりしているブースはバキバキに目立つと僕は考えた。

結果として、それはよかった。もともと僕を知ってくれている人だけではなく、ふらっとやってきた人が立ち寄ってくれることも珍しくなかった。

そして、立ち読みをしているお客さんに対して、タイミングを見計らって僕や一緒に売り子をしてくれたセント君があれこれと声をかけた。

哲学オタクっぽい人には、「ソクラテス対話篇みたいな本で・・・」とか「(解説文を書いてくれた)哲学チャンネルさんって知ってます?」みたいな話をし、学生さんには「バイトしたくないときってないですか??」みたいな話をし、社畜っぽい人には「労働撲滅したいですか?」みたいな話をする。

僕は曲がりなりにも営業の経験もあったし、それなりに自信はあったのだが、ちょっと席を離してセント君にブースを任せて戻ってくると、彼はセールストークをどんどん洗練させていた。むしろ僕が上手く説明できず口ごもっているところを、後ろから援護射撃してくれるような場面もあった。

あ、俺出る幕ないわ・・・」と思った僕は、ほとんどの時間、彼にブースを任せてぶらついていた。

ふらついてみるとようやく、文フリというイベントの輪郭がはっきりしてくる。

文学フリマを歩くのは、書店を歩いているより新鮮で面白い。野菜のパッケージに登場するキャラクターを集めて分析した冊子。ヘビースモーカーの妹との日常を描いたエッセイ。ビルを建てたい政治家と商店街の戦いをテーマにしたカードゲーム。ぱっと見では禍々しすぎて何が書いているのかよくわからない漫画。こうした書店には絶対に置いてもらえないような文学たちを眺めながら、それをつくった本人と話ができる。こんなにアツいイベントは滅多にない。

書店に並んでいる本は、どこか売れようとしてよそ行きに見える。「はい、これが好きなんでしょ?」と想定されたマス向け商品をみたとき、僕は自分が想定されているマスと一致しないにもかかわらずマスの枠に閉じ込められるような窮屈さを感じてしまう。文フリに並ぶ文学たちはもっとぶっきらぼうであった。「俺がつくりたいものをつくったんだが、要る?」といった具合である。

そういうものの方がおもしろかったりするのは周知のとおりである。商品をつくる人が想定するマスは、つねにちっぽけな人間の集団にならざるを得ない。「これが好きなんでしょ?」と押し付けられた商品を消費することは、口元まで流動食を運んでもらう体験に似ている。そのような体験は、ちっぽけな悦びしかもたらさないことは明らかである。

一方で自由に生み出された文学は、読む側に一定の努力を要求する。文学とは生命である。生命は人間に食べられるために生まれたわけではないが、僕たちはそれを勝手に捕まえ、殺し、加工し、料理へと変えていく。それと同じで文学は決して僕が読むために生み出されたのではなく、勝手に生み出される。そして僕が勝手に食べる。これこそが、文学が文学らしくいられるあり方であり、作り手にも、読み手にも、極上の悦びをもたらす体験なのである。

文フリ。いいじゃん。

文フリにきたら財布のひもが緩むというのは本当らしい。僕もあれこれと購入した。

援助交際の物語を、セクシーなお姉さんが売っていたので思わず購入。
おもろそうなカードゲーム。略してDBB。打ち上げでやるつもりが早々に酔って諦めたw
むき出しの文学感がたまらなくよかった。こういう出会いを僕は文フリに求めていた。
地球を二周半した謎の旅人が書いた本である。

※またそのうち買った本の感想は書きます。

最後の『旅するギターと私の心臓』を売っていたブースのお兄さんと話をしていると、どうも一人で店番をしているとのことで、ほかのブースを見に行く時間がないという。

僕はみるみるうちにセールストークを磨き上げていたセント君にまとも書房のブースを任せっぱなしにしていて時間もあったので(セント君まじでありがとう・・・・)、思わずこう言った。「店番しましょか?」と。

結果、10分か20分くらい店番をすることにした。当然、僕とお兄さんは初対面である。なので「お金の管理とか持って行ってもらうか・・・金額計算しといてもらって・・」と一応僕は申し出たのだが、「日本なので大丈夫です。信用してます」と言ってくれた。さすが旅人はたくましい。

不思議なもので、人のブースに座ると「この10分か20分で最低1冊は売ってやろう」という気持ちになってくる。なんなら自分のブースで売り子をするよりもやる気がでてくる(これが、かの有名な貢献欲である)。

と、鼻息荒く意気込んでいたが、1人男性がなんのセールストークも聞かずに本を買っていった。やはりいい本は、セールストークを必要しないのかもしれない。1冊売れて、早々にノルマクリアであるが、こうなるともっと欲張りたくなる。僕は素通りしそうな人々に「立ち読みしていってくださいー!」と声をかけていった。しばらくすると女子三人組が寄ってくれた。僕はお兄さんが説明してくれた内容を、自分なりに解釈してペラペラと喋った。

「地球上から友達がなくしたギター一本を探しだす話でね・・・」「どこの国にあるかもわからんねん、ヤバくない?」「でも、いろんな国の人が協力してくれて、あれよあれよといううちに出来事が動いていってね・・・」「最後どうなったか気になるやろ・・・?」と。

ちょっとべらべらと喋りすぎたかもしれない。しばらく話したあとに「また来ます」と言って三人組は去っていった。買わんやつやんけ・・・

不完全燃焼感に打ちひしがれていると、しばらくしてお兄さんが『14歳からのアンチワーク哲学』を抱えて帰ってきた。なんか買わせたみたいな感じになってしまったが、きっと内容に魅力を感じてくれたのだと信じておこう。ありがたや。

そんなこんなもあって、僕はブースに戻ったり、戻らなかったりしながら、時間を過ごしていた。気づけばニートマガジンが売り切れ、14歳からのアンチワーク哲学もどんどん減っていき、アンチワークマンや労働廃絶論もほぼ消えていった。「行きます!」といってくれた人たちにも会えた。結果は先述の通り、大成功である。

ままどおるも貰った。ありがとう。
写真撮り忘れたのでHPより。
https://www.sanmangoku.co.jp/products/mamadoru/

目論み通り、多くの人が労働撲滅というテーマに興味を持ってくれた。そのなかでもニートマガジンはキャッチ―で、興味を持ってくれる人は多かった。アンチワークマンはとにかく女性が食いついてくれた。前半はニートマガジンに負けていた感のあった『14歳からのアンチワーク哲学』も、セント君のセールストークの上達も相まって後半は追い上げていった。労働撲滅シールだけ記念に買って帰る人も多かった。

やはり誰もが労働というテーマに対して腹に一物を抱えているのである。主婦も、学生も、会社員も、ニートも、万人に付きまとうテーマであり、現代の社会問題の一丁目一番地である。この一日で僕は労働を哲学することは大きな意義があるのだという確信を強めることができた。

大量の本を入れてきた鞄は軽くなり、財布は重くなった。僕の心と懐は温まった。そうと決まれば打ち上げである。17時にイベントは終了し、そこから僕含めて6人で打ち上げをすることにした。

場所は相変わらず川沿いである。

これから川沿いのネーモと名乗ろうかな。
片付けでもたついている僕の代わりに、🍡さんにガイド役をお任せした(これが労働撲滅シールの模範的な使い方である)。わざわざ遠方から新幹線に乗って、本当にありがとう。

川沿いと言えば、雨である。文フリの成功と、一番搾りですっかり上機嫌になった僕らのもとに、さっきまでピーカンだった空から雨が降り注ぎはじめた。まるで空に労働しろと言われているようだった。結果、僕らは二軒目に移動して飲み直した。

いろんな話をした。文フリでの出来事。サドとサーヴァント、マゾヒストとマスターは一致するという哲学的対話。里山万能論や猟友会の話。労働価値説の話。ゲーム制作の話。ほか、あれこれ。酔っぱらってあまり覚えていないが、とにかく楽しかったことだけは印象に残っている。

その後、遠方勢は先に帰り、大阪民だけで雨のやんだ川沿いにカムバックし、三次会を楽しんだ。

たまたま見つけた週休6日というビール。僕たちのために用意されたかのように見えた(「週休7日」としなかったあたりに、煮え切らなさを感じたわけだが、意気込みは悪くない)。ちなみに500円以上した。が、それ相応に旨かった。三次会でもいろんな話をした。アナキズムの話。だめライフの話。都市開発の話。インドネシアの話。うんぬん。

家に帰ったときには12時ごろ。朝八時半から会場設営ボランティアを手伝っていた僕は、すっかり疲れ切って眠りについた。


とまぁ、こんな具合の一日であった。

そういえば僕はとある来場者からこんな質問を貰った。「労働撲滅って言ってますが、この本をつくることか、イベントに出ることって労働ですよね?」と。

これはアンチワーク哲学初心者向けQ&Aに載せるべき「よくある質問」であるが、いたってまっとうな質問でもある。

そう。なんなら僕は朝から別にやらなくてもいいはずのボランティアに参加してテーブルや椅子を設置したり、郵便物をテーブルに配置したりした。もちろん自分のブースの装飾のために何日も前から準備をした。そして当日は売り子となって営業活動に勤しんだ(ほぼ、サボっていたわけだが)。

だが僕は「あー、労働だるいなぁ」と感じながら行動していたわけではない。むしろワクワクしていたのだ。この事態は「労働撲滅」というテーゼと矛盾しないどころか、むしろ労働撲滅が可能であることの証拠ですらある(それは『14歳からのアンチワーク哲学』を読めば理解できるので、理解できなかった人はもう一度読み返すように!)。

そして、イベントを楽しんでいたのは僕だけではなく参加者全員がそうだったであろう。なら、このイベント自体が、労働撲滅の可能性を垣間見せているものだったのだ。もちろん多くの人は、「ん? このイベントが楽しいということは、もしかしたら労働は撲滅できるんじゃないか?」などとは考えないだろう。だが、アンチワーク哲学を思考の補助線として活用するなら、まったく新しい社会へのビジョンが見えてくるのだ。

文学フリマができるなら、なんだってできるだろう。文学フリマの中で行われていたことは紛れもなくエッセンシャルワークである。トマト農家がエッセンシャルワークなら、パセリ農家もエッセンシャルワークだし、パセリ農家がエッセンシャルワークなら、出版業も文筆業もエッセンシャルワークである。

裏を返せば、必要のない欲望を煽り立ててエンタメを売りつけることがブルシット・ジョブだとするならば、必ずしも食べる必要のないトマトに対する煽り立てられた欲望を利用してトマトを売りつけることもブルシット・ジョブである。

僕たちは「誰か」を喜ばせるために、人生の大半の時間を過ごしているはずである。ならば、人を喜ばせる行為はすべてエッセンシャルなのだ。そして、「誰か」には自分も含まれる。つまり、自分が喜べばそれはエッセンシャルワークである。

そのとき誰かが喜ぶかもしれないし、喜ばないかもしれない。なにより確実なのは自分がやりたいことをやれば、自分は喜ぶ。それだけで労働は撲滅されているのだ。

話が逸れてきたのでこれくらいにしておこう。なにはともあれ成功してよかった。楽しかった。またやろう。そして、ありがとう。

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