不正解を愛する

僕は失敗が嫌いじゃない。だが、失敗を人に見られるのは嫌いだ。「ああすべきだった、こうすべきだった」と、好き放題言われるからだ。

攻略サイトに正解が転がっている今、最短ルートで正解を出すことが求められるようなプレッシャーを感じる。そのルートを歩まない人は非効率で時代遅れであるかのようだ。

まぁ、実際のところ、非効率で時代遅れなのだろう。

僕は畑を借りて農業をしているのだが、適当に育てては失敗しまくっている。

素人は無肥料とか、無農薬とか、不耕起とか、不除草とか、そういうことを言いがちで、たいてい失敗するらしい。僕も例に漏れず今借りている畑は、そういうやり方で失敗している。

農家にこの様子を見せれば「それ見たことか!」と鼻で笑うだろう。しかし僕は失敗してからじゃないと、ノウハウを調べる気になれないのだ。すぐに巨人の肩に乗るよりも、まずは巨人になりたい。

息子を見ていると、似たようなことを考えているように見える。スプーンの使い方からトイレの仕方まで、大人があれこれ口を挟もうとすると機嫌を損ねる。彼も巨人になりたいのだ。

なんなら、僕や息子は、そういう不正解のプロセスを経ること自体を楽しんでいるのかもしれない。「不正解がなければ、正解が楽しくない」でもなく、「ただただ不正解が楽しい」のだ。

ルフィは、レイリーからワンピースの情報を聞けるのに聞こうとしなかった。やっぱり僕はルフィが好きだ。

試行錯誤の結果、人と違う結論に至ることもある。それも楽しい。

結局、僕たちは魚を求めているのではなくて、釣りを求めている。パスカルなら「気晴らし」と呼んだそれが、僕たちの人生の空虚を埋めてくれるのだ。

全てが目的のための最短ルートになったとき、人生はラプラスの悪魔が描いた無機質なストーリーになる。自由意志があるのか無いのか知らんが、わざわざ自由意志を捨てるようなことはしなくていい。

僕は最も人の個性が現れるのは「ウンコの仕方」であるという持論を唱えている。完全な密室で誰にも見られることはなく、そして互いにノウハウを共有することもない。しかし、ズボンの下ろす位置、タイミング、トイレットペーパーやウォッシュレットの扱い、残糞感をどこまで許容するか、ウンコの状態のチェックの仕方など、さまざまな創意工夫の余地がある。

誰とも批評しあうことなく、自由に自分なりのスタイルが確立される。それがウンコの仕方だ。

ウンコをするように、生きてみるときっと楽しい。

この記事が参加している募集

夏の思い出

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!