見出し画像

のびのび教育主義の裏側には教育ママが隠れている

この前、幼稚園の園長先生と話をした時、こんなことを言われた。

「うちはお勉強とか、そんなことよりも、伸び伸びと自由に育てることを重視します。アインシュタインだって幼少期に詰め込み教育をしていたわけじゃありませんから」

「ええ、そうですね」と頷きながら、僕は些細な違和感を覚える。まるでアインシュタインにならなければ、その子の教育は失敗したかのような物言いだと感じたからだ。

もちろん、これは僕の早とちりだろう。アインシュタイン以外の人類を全否定するような意図を、園長先生が持っているとは思えない。

だが、どうであろうか? Amazonの倉庫で非正規雇用される45歳男性は、きっとその先生にとっては教育失敗と見做されるのではないだろうか。自由の先にそういう未来が待っているなら、その先生は自由を肯定するだろうか?

「実はあのオリンピック選手も、うちの卒業生なんですよ」

ふーん。


幼少期からの詰め込み型英才教育が思った以上に成功に結びつかないということに大人たちが気づいてから、モンテッソーリやシュタイナー、レッジョ・エミリアのような教育法に注目が集まった。

それぞれ微妙な違いはあるが、詰め込み教育を否定して、自発性とか、自由なんかを尊重する点は共通する。

その先にある目的は何か? それは成功者を育てることだ。

ラリーペイジやジェフベゾスなんかもモンテッソーリだったらしい。自由で伸び伸びと育てれば、ハーバードを卒業し、第二のGoogleを創業してくれるなら、どんな親でも喜んで自由を与える。

だがどうだろう。自由の先に資本主義社会に疑問を覚え、学校をドロップアウトし、山奥ニートを始めるのなら、それでも親は自由に育てるだろうか?

結局、社会的成功というルールから、親自身が自由ではないのだ。かつての教育ママとなんら変わらない。単に詰め込み教育ママの手法がうまくいかないとわかったから、別のトレンドに切り替えたに過ぎない。

親の期待という狭い庭の中で、自由にのびのび生きたところで、それは柵の内側だ。親の期待を飛び越えて、訳のわからない人生を歩むことになっても、それを受け入れる度覚悟をもって「のびのび教育」を語るのが、誠実な態度ではないかと思う。

自由に遊ぶ子どもを見て「この遊び1つひとつが、非認知能力を育てこの子を億万長者にするプロセスなのよ‥」と信じながら子どもを育てるのは、それがそれで楽しいのかもしれない。

でも僕は、もっと自由に。僕が眉をひそめる様な生き方だって肯定したい。いやむしろ、肯定も否定も気にしないでほしい。

教育ママを追い払え。自由は、教育ママの目の届く範囲にはないのさ。

冒険の対義語は母親である。
尾田栄一郎(ソースは忘れた)

この記事が参加している募集

休日のすごし方

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!