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性陽説について、考える

これは、最近読んだ中でトップクラスに面白く、考えさせられたnote。

面白いので、僕も一枚噛ませてもらおうと思った。Wikipediaにいつか陽キャ哲学というページが作成されたとき、その哲学に貢献した哲学者として僕の名前が刻まれることを夢見て。

陽キャ哲学普及協会さん(以下、陽哲協さん)は、人は生まれながらにして陽キャであるという性陽説を唱え、そこを出発点にして議論を展開している。

陽キャというのは社会的にしろ、生物学的にしろ、後天的に個人に根付いたロール(役割)であり、キャラクター(性格)ではないのではないかという疑問を持ちました。生来は人間皆が陽キャだったのではないかという『性陽説』の立場を打ち立て、そこから人間が陽キャラに回帰するにはどうすれば良いのかということを考える哲学体系の総称を『陽キャ哲学』と命名しました。

要するに、人は生まれながらにして陽キャだと言っている。

では、陽キャとは一体なんなのか? 陽哲協さんは「一番重要な概念が『能動性』」と述べた上で、陽キャの語源から遡って、次のように説明する。

そもそも陽気とはなんでしょうか? 陽気とは、儒教経典の易学で使われていた言葉を起源に持つ熟語で、「万物が今まさに生まれ出て、活動しようとする気」を表す言葉として定義されました。つまり活動の起点のエネルギーが陽気ということであり、物事の起点になれる能動性を持った人間であることが陽キャラであるための必須条件です。

つまり、「能動的な人」と陽キャはほぼイコールとのこと。これは僕たちの日常感覚とも一致する。陽キャはこちらが嫌がっているかを気にする素振りもなく「今日、飲みに行こうぜー!」と誘ってくるからだ。

このように考えると、性陽説の立場に、より説得力が生まれてくる。子どもを育てたことがある人なら分かるように、子どもは能動性の塊だ。

性陽説によると人間の生来の姿は陽キャラのはずです。人間は人生を通して能動性を獲得するのではなく、本質的に能動的だった人格が、環境要因によって捻じ曲げられていくのです。どんなに能動的な人格を持った大人でも、3歳児の行動力には到底及びません。

では、なぜ人は能動性を失っていくのか? 陽哲協さんは、原因を「社会」に求める。

それは社会そのものが、個人の能動性を麻痺させる神経毒として機能しているからに他なりません。

そして社会とは、誰かが土地を囲って「俺のものだ!」と言って「所有」を発明したところからスタートしたという、あのルソーの説明を引用している。

しかしここでは、「社会」が一体、何を意味しているのかは掘り下げられていない。

「社会」の何が、人の能動性を奪う要素として機能しているのか。僕は「道徳」と、それを基準とした「他人からの評価の網」(評価を前提とした自粛も含む)こそが、人の能動性を奪う原因であると考えた。

陽哲協さんの議論は、別の方向へと向かうが、僕の考察にとってヒントとなる要素はあった。それは、能動性はゼロサムゲームであるという主張だ。

受動性からの逃避はどのように達成されるのでしょうか。それは他人の能動性を奪うことです。2人しかいない島を想像してみてください。片方が能動的に相手を導こうとします。そうするともう一方は必ず受動的になります。「場面によって交互に役割を入れ替えればいいではないか」という反論がありそうですが、自分の能動的行動を増やせば、相手の能動的行為の機会が減少するのは変わりません。つまり能動とは相手の能動を奪う加害行為であり、他者からの人格的搾取によってしか成立しないことが分かります。

僕はこの主張に2つの方向から意義を唱えたい。

まず1つ目の反論材料は、個人的な能動性の存在だ。陽キャの原動力を能動性と定義するなら、黙々と趣味に没頭することも性陽説とは矛盾しない。1人で切符集めに勤しむという能動性は、他人の能動性を侵害しない。故に、能動性がゼロサムゲームではないケースもある。

2つ目の反論は、拒否もあるいは受諾すらも、1つの能動性として機能するという僕の主張だ。

「人の誘いに乗る」というのは確かに態度次第では受動的な行動になってしまう。しかし、そこに断るという選択肢があるのであれば、それも能動性になり得る。目の前に現れた水仙の花を観察するという行為は、それをしないという選択を退けているが故に能動的であるのと同様に、目の前に現れた「誰かの誘い」を主体的に受け入れることも、能動性たり得ると僕は考える。

実際、2歳の息子は僕の「公園に行こう」という提案に乗ることもあるわけだが、彼が公園で元気に遊び回る姿を見れば、彼が受動的であると主張することは難しい。

もちろんここで、「環境に左右されない全く自発的な行為でなければ能動的ではない」との反論も考えられる。しかし、全く環境に規定されない行動など存在しないことは少し考えを巡らせるだけでわかる。僕が能動的に誰かを飲み屋に誘ったとして、そこに居酒屋があるという環境に誘導されているわけだが、だからといって僕が受動的であるわけではない。

能動性を妨げる要素は、物理的な限界であることもあるが、そうでないことの方が多い(例えば人は光速で動くことはできないが、それ故に能動性を奪われたと感じる人は少ない)。

では、人から誘われた時に能動的であるためにはどうすればいいのか? それは断るという選択肢を持っているかどうかにかかっている。

断るためには? 相手からの評価を気にしないという姿勢が必要だ。同様に、他人を巻き込まない個人主義的な能動性的行動に没頭するにも、他人からの評価を気にしない姿勢が欠かせない。

つまり、能動性を妨げる「社会」の機能とは、誰かの評価であり、評価を気にする姿勢だと僕は考える。

もちろんここで、性急に結論を下してはならない。

人からの誘いも含めて、目の前に現れるどのような現象にも、強制力の緊張が孕んでいる。そこで「強制された」と感じるか「自ら選択した」と感じるかの基準は常に曖昧だ。

また、ニーチェの奴隷道徳について、あるいはマックス・ウェーバーの「支配の正当性」という概念についても考えを巡らせなければならないだろう。彼らが何を言っているのかというと、人は自ら選択したと思い込んでいても、事実上は誰かから強制させられている場合があるということだ。

一方で、完全に受動的になることも、人間にはむずかしい。ただ座って誰かの講釈を聞く場合であっても、人は座るという選択をしなければならない。

どの程度、納得感があれば良いのか、明確な基準を設定することはできない。人は完全に能動的であることも、完全に受動的であることも不可能であるが故に、その判断は常に本人に託されている。

やはり鍵となるのは、断ったり、別の選択を採用したりするという選択肢があるかどうかだと思われる。

僕はここで『能動性の共鳴』という概念を打ち立てたい。誰かが誰かを能動的に誘って、その誘いに対して能動的に乗る。あるいは断る。それこそが社会にとって必要な能動性であり、1億、いや70億総陽キャ社会を目指す上でも欠かせない。

断られたとき「こういう時は誘いに乗るもんやろ」と憤慨してしまえば、それは評価を発生させてしまい、その評価を想定するだけで人は受動的になってしまう。だからその評価がない状態を目指さなければ、能動性の共鳴は起きない。

以上が僕の現段階の考察だ。もちろん僕はここで議論に決着がついたとは思っていない。さらに議論を発展させる論客が現れ、性陽説がさらに洗練されていくことを願っている。

次の論客はあなたかもしれない。もちろんこれは強制ではない。やるもやらないも、あなたが能動的に選択することができる。

さて、どうしようか(圧倒的な圧力を込めて)。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!