『魔女の宅急便』を観て、相互扶助について考える
実は30歳になる僕だが、生まれてこのかた『魔女の宅急便』を観たことがなかった。このまま、「あえて観ない派」を貫き通すこともできたのだが、ひょんなことから観ることになったのだ。
やっぱりスタジオハヤオは面白い。そう思った。スタジオハヤオの作品はスッキリ爽快なストーリー展開を用意する一方で、説明しない曖昧さを含んでいる。そこにぼくたちは豊かな世界を感じる。
例えば、キキがニシンパイを届けた後に凹む理由や、魔法が使えなく理由、ジジが話せなくなる理由、再び魔法が使えるようになる理由‥この辺りについて明確な説明はない。
だが、僕なりに解釈できた。この作品のテーマは「相互扶助」(クロポトキン&アナキズム的な意味で)だ。
まず重要な描写は、田舎と都市の対比。みんなが顔見知りで相互扶助で成り立つ田舎から、キキは都市へ旅立っていく。都市では、警察や身分証明書といった非人格的なシステムによって管理されていて、人は無関心に振る舞っている。
思い返せば、都市にたどり着く前に挿入されていた家畜の牛とキキが出会うシーンは、都市という管理社会を予感させるシーンだった。
しかしキキは都市に来ても相互扶助の価値観を捨てずに振る舞う。そうこうしているうちに、無関心な管理社会の中にも生き延びていた相互扶助の残り火に出会い、そこに生命の酸素を注いでいくのだ。
魔法とは、いわゆるアンリ・ベルクソンの言うエラン・バイタルのようなもので、生命のエネルギーのメタファーであるように僕は感じた。つまり、人々の心の底にある他者に貢献したいという相互扶助の元となるエネルギーだ。だからニシンパイという相互扶助の象徴を蔑ろにされたとき、キキは魔法を失った。同時に、ジジの声すら聞こえなくなった。
そこから先、キキがリハビリを経て、再び魔法を取り戻す。そして街中を無関心の闇から引き摺り出して相互扶助の関係性の中に巻き込み、ストーリーは終わる。
田舎=相互扶助、都市=冷たい官僚制という対比を超えて、都市の中の人間にでも根強く生き残る相互扶助を鮮やかに描いた作品だと言える。結局最後までジジの声は聞こえないままで、僕の解釈ではそれを説明し尽くすことはできないが、誰か何か思いついたら教えてw
キキの姿勢から学べることは多そうだ。都市に生きる僕たちは冷たい官僚制に屈して、隣人に挨拶もしなくなった。だが、たった1人の働きかけで、相互扶助は生き返るわけだ。
ありがとう、キキ。ありがとう、スタジオハヤオ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!