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『ディスコ・エリジウム』は左翼思想のコスチューム化に一役買っているか?

共産主義革命が失敗した後の世界。この設定だけで負け犬左翼によるノスタルジーの印象が強いが、実際そんなゲームだった。

ソ連の失敗を知っている負け犬左翼は、資本主義を批判しながらも、プロレタリア独裁に対して冷ややかな目線を向けるシニカルな態度を維持する。そうすべきでだと、教科書に書いてあるからだ。

その態度は、それはそれでカッコ良く見える。シニカルだからだ。シニカルな態度は例外なくカッコ良く見える。

結局、このゲームは資本主義社会を壊したいのか? それとも資本主義社会の中で美味しいポジションにつくことを肯定しているのか?

このゲームは、明らかに後者の立場に立っている。

『ディスコ・エリジウム』の成り立ちは、資本を持たず、ただ情熱と才能しか持たないアーティストたちが集まって成功するというサクセスストーリーだ。これは、そのまま資本主義を肯定するロジックになり得る。

つまり「たしかに資本主義社会には、格差は存在する。しかし、努力次第で覆すことが可能であり、富者は富者に値すし、貧者は貧者に値する」というイデオロギーを肯定しているのだ。

ならば結局、資本主義批判すら商品に変えて、資本主義社会の中で売り捌き、賢く振る舞うことが正義だと言うのだろうか?

肝心のゲームのストーリーでも、共産主義にシニカルな態度をとっているのだから、僕たちはそのように受け取ることしかできない。

僕としては、もう少しポジティブなメッセージを発信してほしいと思ったら。

ゲームの中で労働組合が提示した「労働者全員を取締役に」という要求は、非現実的な「ふっかけ交渉術」であるような扱いを受けていた。これ自体はほとんどティール組織やDAO、ワーカーズコープという考え方であって、資本主義社会の中ですらそこまで非現実的なものと捉えられていない。

そういう可能性の一切合切を、シニカルに見つめる必要はないのではないだろうか?

このシニカルさは、「古典的な左翼どもは非現実的な夢ばかりを見ている」というメタ的視点で一段上に陣取ろうとする負け犬左翼にとって、ファッションアイテムとしてナイスなフィット感がある。

もはや、ナイスなフィット感があり過ぎて、1つの様式美と化している。

資本主義批判は、「ホラー×ファンタジー」とか「SF×サムライ」と同列であり、「資本主義批判×●●」のように、とっかえひっかえ可能なジャンルの1つに過ぎない。そしてこれはTwitter(やnote)のプロフィール欄を埋める素材…要するにコスチュームになるのだ。

一方で、可能性を感じないこともない。

僕は資本とは価値の塊であり、価値とは「人を動かす権力」だと定義している。『ディスコ・エリジウム』は人を動かす権力を抜きにして、アーティストたちの情熱によって、コアなアイデアは生み出された。それを資本の力(液晶パネル工場やプレイステーションといった資本によって生み出されたインフラ)で拡散したものだ。

資本主義は、資本主義の外部のコミュニズムによって生み出された価値を利用するという、典型的なパターンだと言える。価値自体は、資本抜きでも生み出せた。

資本がインフラを生み出す過程には苦しみや搾取が存在するが、コミュニズムが資本が生み出したインフラを古代遺跡みたいに扱って、それを活用するなら、資本の出番はもう無い。

マルクスが生産力にやたらとこだわったのは、こういうことが言いたかったわけだ。資本の力が必要なくなるくらいに、資本にインフラ整備をさせれ、あとは革命…というのがマルクスが描いたロードマップだ。ならば、資本によって生み出されたインフラのメンテナンス体制と、資源の循環サイクルを準備できれば、後はどうとでもなるのではないだろうか?

そういう可能性を、まじまじと見せつけてくれたのが『ディスコ・エリジウム』だと解釈すれば、資本主義を乗り越える希望も見えないこともない(これ自体も、手を替え品を替え、マルクス主義者が言い続けていることだけど)。

これらの主張は擦られ続けてきたわけで、僕のこの記事には大した目新さはないかもしれないが、それでもゲームという形で再びその事実を裏付けたことには、感慨深いものがある。

そして、あれこれ言ったが、このゲームは面白い。結局、面白ければ何でも良い。


ゲームも同じかもしれない。

不満点があるとすれば、マップの通行可能箇所がわかりにくいことだろうか。

あとは、僕は肉体全振りのステ振りでこのゲームに挑んだわけだが、肉体よりも頭脳を求められるケースが多く、苦労した。推理ゲームなので当然予想された展開なわけだが、もう少し肉体によって状況を打破するような選択肢が用意されていても良いのではないかと感じた。肉体派を選択肢としいて用意している割に、頭脳贔屓が強すぎる。初代ポケモンの虫タイプみたいな扱いだ(インテリ左翼はついつい頭脳重視に傾きがち。これは覚えておこう)。

ゲームのシステムには慣れるまで時間がかかったため、後悔している場面もたくさんある(クレイジーな選択肢を選び過ぎて、口を聞いてくれないキャラが頻出し、それによって袋小路に陥ったエピソードがいくつもある)。その先に、火炎瓶を投げつけて失敗し、変なジャケットを着ていることを咎められるという、なんとも煮え切らないエンディングを迎えた。

もう1周やろうかな。やりたいな。やるわ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!