私は老害になりたい

安楽死が合法化された世界を描いた小説『平成くん、さようなら』では、周囲の空気に流されて、あれよあれよといううちに安楽死を余儀なくされた老人が描かれている。

若者に迷惑をかけないように振る舞い、若者にチャンスを譲り、さっと身を引く老人は、確かに美しい。しかし、それが道徳律になり、人々を拘束し始めるくらいなら、そんな価値観はない方がマシだ。

シャンクスは、老人ではないくせに、老人みたいなことを言う。

別に「ワシは誰にどれだけ迷惑をかけようが、1分1秒でも長く生き延びてやるんじゃい!」とか「何歳になろうが、ワシが主役じゃい!」という生き方があってもいいと思う。

それなのに若者にチャンスがたくさん与えられる一方で、年寄りには与えられない。

若者にばかりチャンスが与えられることは、「将来があるから」という理由で正当化されるが、これは社会的に構築された幻想であるように思う。

例えば、企業は「20代しか採用しない」なんてことを平気でやるわけだが、20代なら確かに定年まで30年以上あるのに対し、30代なら20年以上ということになる。

しかし、別に20年だろうが30年だろうが、あまり変わらないと思うのは僕だけだろうか? どうせ20代のやつも数年以内で辞めるのだし。

30代は考えが凝り固まっていて扱いづらいみたいな意見もあるが、それこそが年齢差別ではないか。当たり前だが、柔軟な80代もいれば、凝り固まった20代もいる。

アインシュタインが20代半ばで相対性理論を発表していることや、IT起業家が軒並み20代で億万長者になっていることから「大きな成果は若者しか残せない」みたいな若者黄金期説で、年齢差別を正当化する節もあるが、僕はこれは社会構造の問題だと想っている。

たしかに、大きな成果は若者が残しているわけだが、家庭を持つとチャレンジできないという社会構造や、年齢を重ねている人にはチャンスが与えられにくいという構造がそうさせているのであって、20代と30代に何か決定的な能力の差があるとは思えない。

生物学的な年齢と、社会的な年齢は違うのだ。

別に、何歳になっても、何をやってもいいんじゃないだろうか。

人生100年時代だなんだと言われているくせに、まるで30歳くらいで人生が決定され、残りの人生は消化試合であるかのように考えるのは、なんてつまらないのだろう。

年相応、みたいな考え方はいらない。何歳になっても子どもみたいなことをしてやればいい。馬鹿みたいな企みに、邁進すれば良い。50代でヒップホップに目覚めようが、定年退職後にプリキュアオタクになったっていいじゃないか。

それを老害と呼ぶのなら、呼べば良いさ。理想的な老人像からはみ出した人がみんな老害扱いされるのなら、僕は老害になりたい。

それに20代しかホームランが打てない社会より、30代も、50代も、90代ですらホームランが打てる社会の方が、どう考えても理想的ではないだろうか?

うん。きっとそうだ。みんな、老害たれ。

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