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じゃあお前Googleがうんこ食えって言ったらうんこ食うのか?

なんでも二項対立にするのは良くないと僕たちは口すっぱく教わってきた。しかし、言語とはそもそも「それか、それ以外か」という二項対立を生み出す性質を持っているわけで、言語を使ってコミュニケーションする僕たちはグラデーションを上手く表現するインスタントな手法を編み出せないまま2024年を迎えようとしている。

利己と利他。労働と余暇。快楽と苦痛。孤独と共存。

なにごともほどほどが一番であるし、人はほどほどに生きている。このことに異論がある人はいまい。しかし、「なにごともほどほどが一番である」という言説は、この上なく魅力が乏しいことも事実。

だから、「孤独のすゝめ」的な言葉を吐くことになる。彼は、孤独はいいものであると認めつつも、24時間365日ずっと孤独でいることを推奨しているわけではないだろう。しかし、あたかも24時間365日ずっと孤独でいることを推奨しているかのように見えてしまう。

「孤独のすゝめ」はそもそも人との共存やコミュニケーションばかりが重視されている現状に対するカウンターパンチとして登場した言説だろう。カウンターパンチは多少、大袈裟でないと響かない。「共存もいいけど、孤独もいいよね」などと言っても「え、そりゃあそうですがなにか?」としか思われないのである。極端なくらいに孤独のメリットを乱射して初めて人の注目を集める言説は可能になる。

そして、その代償として「じゃあお前24時間孤独で生きていけるのかよ?」などという反論が集まってくる(世の中に存在する論争の9割はこの手のやり取りなんじゃないかとすら思う)。

そういえば僕はこの前、ほんのり自分の記事を批判されていた。割とどうでもいい内容だったのでスルーしていたが、ちょっと今回のテーマと関係があるから取り上げてみよう。

ここでは、僕が過去に書いた「Googleにデータとられて、購買行動を誘導されるのってだるいよね、やっぱり自分で決めて生きていきたいよね」みたいな内容に対して以下のようなツッコミがされていた。

彼は何についても一度も誰にも相談したことはないんだろうか。何かを決めるのに情報をあさったりしないんだろうか。偶然知った情報で得したことはないんだろうか。誰ひとりの影響も受けずに育ってきたと思ってるんだろうか。

誰とも関わらず、まるでロビンソンクルーソーのように生きてるなら別だけど。

マジレスするなら「僕は人に相談したことがあるし、情報を漁ったりするし、偶然知った情報で得したこともあるし、誰ひとりの影響も受けずに育ってきたと思っていないし、ロビンソンクルーそのように生きていない。どうしてそう思ったのかは知らないけどね」となる。

あるいはキレ気味で反論するなら「じゃあお前はGoogleにうんこ食えって言われたらうんこ食うのか?」となる。もちろん、彼がうんこを食わないことは百も承知である。しかし、ロビンソンクルーソーのように生きているのでなければ「Googleにデータとられて、購買行動を誘導されるのってだるいよね」的なことを言うのは筋が通らないとする彼の理論を突き詰めると、彼はうんこを食わなければならないことになる。

もちろんこれに対してなんらかの反論をすることは可能だ。彼がもしこの文章を読んでいるなら、うんことGoogleについてのロジックが脳内で渦を巻いている頃だろう。だが、もうそうなってくると議論は泥沼であり、恐らく僕たちがそこから何かを得ることはない。「ほどほどが一番だと、誰もが理解している」という前提で議論を進めるべきであることは、義務教育で教えておいて欲しいものだ。

では、永遠のすれ違いを続けるか、それとも何事も相対化して悦に入ることしか、僕たちにとりうる選択肢はないのか?

そうとも限らない。ヒントとなるのは、部分的には「ほどほどが一番」が前提とされている議論の存在である。例えば「ラーメンは旨い」と主張する人に対し、「じゃあお前、一生ラーメンしか食うなよ?」とか「24時間ラーメン食い続けられるのか?」などと反論する人はいない。壮大なテーマとなればそのような反論がまかり通っているのが現状だが、ラーメンに関してこのような反論をしようものなら、彼はモンスタークレーマー認定間違いなしだろう。

普通の人は、ほどほどが一番であることを承知の上で、ラーメンについての議論に参加する。こういう態度があらゆる議論の場に浸透していけばいいのだけれど、現実は難しいものだ。

ところで、『万物の黎明』を読んでいると、いわば未開とされる人々の方が、文明人とされる人々よりも理路整然とした議論をしているといった趣旨の話が書いてあった。彼らの社会は、議論する上で参考になるのかもしれない。どう参考になるのかはわからないが。また読み返してみよう。『万物の黎明』も。

僕はもうすぐこの記事を締めにかかろうと思っているわけだが、なんとも歯切れの悪い記事にまとまってしまった。まぁ、二項対立を避けようとするなら、こういう曖昧な記事になってしまうのは止むを得ないのだと言い訳しておこう。

※ちなみに言えば僕はアンチワーク哲学と称して、「労働なき世界」とか「失業率100%を目指すべき」とか主張している。これはほどほど論とはかけ離れた主張なのだが、それはまた別のお話。


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