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人罪でもなんでもいいから、とにかく休ませろこの野郎

今の会社は月に1回だけ土曜出社がある。1日仕事が増えるくらいなんてことないやと思っていたが、いざその日がやってくると、どうにも気分が憂鬱だ。

なぜ僕は憂鬱なのか? 考えていると気づいた。仕事が1日増えるのは別にいいが、休みが1日減るのが嫌なのだ。

なんて考えていると、2日分損したような気がしてきた。仕事が1日増えるだけでない。仕事が1日増えることに加えて、休みが1日減るのだ。土曜日に出社するだけであら不思議、合計2日分、経営者に搾取されることになる。つまり、2倍の日給をもらわないと割に合わない。

何より腹立たしいのは、土曜日に出社するほど、やることがないのだ。だから土曜日の出勤日はみんなダラダラと時間を潰しているらしい。それでも土曜日が仕事なのは、「習慣」以上の説明は要しないだろう。習慣は本能を模倣するほど強力だと、アンリ・ベルクソンも言っていたっけ。

とは言え、「習慣」で片付けられては困る。刑務所で洗濯などの日常的な業務が取り合いになるように、人は労働よりも退屈にストレスを感じる。やることがないのに、拘束されるのは拷問なのだ。

「だったら休みにすればいいですよね」と、意識高めの先輩に話してみた。するとこんな答えが返ってきた。

「まぁ、出社するだけで、電気代も燃料代もかかりますしねぇ」

素晴らしい経営者目線だ。まさしく人財。僕のように休むことばかり考える人罪とは違う。

「他人を手段ではなく目的のように扱え」みたいなことをカントが言っていたが、この先輩は自分自身を経営者の「手段」として考えて行動している。

あたかも経営的なメリットがなければ、社員は1日たりとも休むべきではないかのような言い草だ。

僕にとって、自分自身は手段ではなく目的だ。つまり、僕が自由に過ごせる時間そのものが、何よりも優先される目的になる。だから「休むから休む」というロジックは、十分に成立するのだ。

だからと言って僕は日がな一日YouTubeを観て過ごすわけではない。いや、そういう日もあるわけだが、ピザを捏ねたり、糠漬けを作ったり、掃除したり、洗濯したり、日曜大工したり、畑を耕したり、みかんの収穫を手伝ったり、子どもの世話をしたり、一見すると労働に見えるようなことに1日を費やすことの方が多い。

経営者からすれば人罪であっても、別に僕は怠け者な訳ではない。単に人の支配下に入って労働することに嫌悪感があるだけだ。

実際、支配下に入らないで済むなら、金銭の発生する労働も悪いことではないと感じる。だが実際のところ、金銭が発生するなら、支配下に入らないことは難しい。起業家も、フリーランサーも、客に支配されるわけだし。

そもそも僕はどうして週に5日も働いているのだろうか。ケインズの論文とブルシットジョブの話は、もはや僕のnoteでは鉄板で、それをクドクドと繰り返すのはやぶさかだ(「やぶさかではない」という使い方があるのだから、これもOKだよね?)。

いま僕がやってる仕事はどちらかと言えばエッセンシャルワークに近いのだが、恐らくピンハネして過ごす金融資本とブルシットジョバーの軍団の分、倍以上に働いている。つまり、さっさとウォール・ストリートとかその辺りを爆破して回れば、僕の労働時間は半分になるのだ。

あぁ、「社会に不満があるなら自分を変えろ!それが嫌なら孤独に暮らせ」という草薙素子の声が聞こえてくるぜ。

僕は社会に不満があるなら、社会に不満を垂れ流すべきだと思っている。誰も不満を言わないから、こんなに社会が非効率になっているのだから(例えば食糧廃棄率は、働きすぎの結果だ。これを非効率と言わず何と呼ぶのか)。

ナチスと民主主義の話を引き合いに出すまでもなく(と言えば事実上、引き合いに出しているわけだが笑)、不満を垂れ流すことは道徳的であり、正義とすら言える。

誤解を恐れずに言うと(と言うと、誤解を恐れているわけだが笑)、僕は働きたくない。それに非効率な社会は見ていて耐え難い。だから、ブルシットジョブを無くして社会全体の労働時間を削減すべきだと主張する。

人間という仕事を与えられてどれくらいだ
相応しいだけの給料貰った気は少しもしない
BUMP OF CHICKEN『ギルド』

‥休みをください。

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