noteとは、ションベンみたいなもの

かつてユーミンが「作曲は生理みたいなもの」と言っていた。天下のユーミンと自分を重ね合わせるのは気がひけるし、僕は男なので生理は来ないけれども、すごく同意できる。

作曲に限らずあらゆる表現活動は、自分の中にたまった老廃物を吐き出す行為に似ている。noteに雑文を書き殴ることだって同じだ。僕は生理という比喩が使えないので、ションベンみたいなもの‥とでも言っておこうか。

日常の中で気づいたこと。なんかモヤモヤすること。誰かに伝えたいこと。こういうものが頭の中にずっと残っていたら、日々のやるべきこと(例えば洗濯物を畳むこととか)に集中できない。

だから、書く。覚えるためではなく、忘れるために書く。

忘れることの重要性は確かニーチェや外山滋比古も語っていたはずだ。

ソースは示さない。ユーミンの話もソース不詳だ。だって別に僕は論文を書いているわけじゃなく、忘れるために雑文を排泄しているだけなのだから。

ションベンが自然界を巡って土壌微生物の餌となり、野菜の栄養になり、それを食べた誰かのションベンになるように、僕の雑文は、もしかしたら誰かが摂取して、また新しい雑文へと生まれ変わるかも知れない。

排泄せずに溜め込むと、精神にとって良くないことが起きる。だからいつも吐き出す。そういう意味では誰でも簡単に排泄できるnoteという場は、なかなか良いものなのかもしれない。

もちろんnoteじゃなくてTwitterで吐き出してもいいし、友達と話してもいいし、本を書いてもいい。ションベンのスタイルが多種多様なように、自分に合った排泄のスタイルを選ぶことができる。

ションベンの比喩、なかなかしっくりくるな。うん。

そう考えれば「書くことがない」という人は、別に書く必要はないのかもしれないね。ションベンしたくないのに、トイレに行く必要はないわけだ。

気づいたこと。モヤモヤすること。伝えたいこと。そういうものがあるときだけ書けばいいし、何もなければ書かなければいい。

そういえば『読みたいことを、書けばいい。』とかなんとか、そんな本が売れていた。僕がアレンジするとすればこうなる。

忘れたいことを、書けばいい。

さて、これでまた一つ老廃物を吐き出せた。ゆっくり眠れそうだ。

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