狩猟採集時代の老後ってどんなものだったのだろう?

現代人は、老後に怯えきっている。老後、西成で野垂れ死なないために働き、貯金をして、年金を払って、株を買って、住宅ローンを組む。これほどまでに公共の福祉が整い、医療が発達し、豊かになった現代でも、万全に備えなければ、乗り越えられない老後。では、狩猟採集時代の老後はどれほど過酷だったのかと、ふと疑問に思った。

まず考えられるのは、老人になる前に大多数の人が死ぬということだ。今でこそ60歳なんてまだまだ先は長いと感じるが、当時は60歳まで生き残る人なんてほとんどいなかっただろう。そんな社会なら、老後に備えるまでもないかもしれない。

しかし、ごく少数はいたはずだ。60歳オーバーが。その狩猟採集時代の老人たちは厚生年金に加入していない上、iDeCoも契約していない。貯金も株も不動産ももっていない。資産ポートフォリオを確認すれば、ほとんど資産価値のない生活雑貨と、身につけている装飾品程度だったはずだ。では、どのように生き残ったのか。

口減らしのために姥捨山のようなところに放り投げられる場合もあっただろうが、知恵袋として活躍した可能性が高い。文字のない世界では、先人から受け継いだ狩猟採集のノウハウを伝えられる人材は貴重だ。老人は子や孫、ひ孫に対して、知恵を授けるという働きの報酬として、獲物の一部を分け与えてもらったのだろう。だから、貯金がなくても生き延びられた。

では、なぜ現代人は貯金がなければならないのだろうか。確かに、今は文字どころか百科事典があり、インターネットがあり、オンラインの学習サービスの数々がある。YouTubeで学べないノウハウの方が少ないくらいだろう。老子の口伝の価値は相対的に下がってしまった。さらに寿命が延びたことによって、老人は供給過多に陥っている。ただ生き延びただけで価値があった狩猟採集時代とは異なり、他の老人と差別化できるだけのノウハウを得ることはかなり難しくなった。老人が若者に対して講釈をたれたいと思ったら、報酬をもらうどころか、お金を払って老人ホームに入らなければならない。

こうやって見ると老人にとっては難のある時代だ。しかし裏を返せば、差別化できるだけのノウハウさえあれば、貯金は必要ないと考えることもできる。幸い現代では、狩猟採集時代に必要とされてきたノウハウ(植物の見分け方、加工の仕方、狩りの方法、釣りの方法など)よりも、膨大な種類のノウハウが求められている。建築、絵画、音楽、料理、ゲーム、スポーツ、プログラミング‥そのサブジャンルまで含めれば、なんでもありだ。その中から一つ二つチョイスしておいて、老後までの数十年間、ノウハウを蓄積させていけば、十分な価値になるのではないかと思う。資産ポートフォリオの中には、ノウハウという無形資産も組み込むべきなのかもしれない。

もちろん、陳腐化するノウハウもあれば、時代遅れになるノウハウもある。だから、老後であっても、常に自分自身を更新し続けなければならない。狩猟採集時代の老人なら、そのような必要はなかった。身体自体は当時からほとんど変化していないはずなので、恐らく現代の老人にそのような機能は組み込まれていないだろう。しかし、人体工学をねじ曲げてでも、やった方がいい。

大変だと感じるかもしれない。だが、狩猟採集時代の老人と違って、何歳になっても新鮮な学びが得られると考えれば、楽しくなってくる。バックヤードで知恵袋に徹するのもいいけど、老後も若者と一緒に前線で学び続けるのも悪くない。

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