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「働きたくない」という気持ちは、間違っていない

「働きたくない」と思ったことのない人なんて、きっと1人もいない。それどころか、ずっとそう思っている人の方が多いのではないだろうか。

就活を控えた学生も、残業中のサラリーマンも、ニートも、きっとみんな働きたくないと思っている。

この気持ちは、社会的に「良くないこと」と考えられている。なぜならば、「働きたくない」と考えている人は、誰かの役に立つことを拒否する怠惰な人間であると想定されているからだ。周囲の人々がそう思うだけではなく、おそらく「働きたくない」と考えている当の本人も思っている

私は、人の役に立つことを嫌がっている怠惰な人間なのだ」と。

しかし、これは本当だろうか? 彼らは人の役に立つことを心の底から嫌悪しているのだろうか?

よくよく考えれば、そうでないことは明らかだ。彼らは、毎日同じ時間に出勤しなければならないことや、上司に怒られないようにビクビクすること、過度で退屈な労働を強いられること、クレーマーの相手をすること、なんの役に立つかわからない資料を作ること、相手に対する嫌がらせとしか思えない飛び込み営業をしなければならないことを嫌悪しているのであり、決して「人の役に立つこと」それ自体を嫌悪しているのではない、と僕は考える。

例えば「なぜ、客にコーヒーを提供しなければならないのだ?」と愚痴を言うカフェ店員を見たことがあるだろうか?

「なぜ、こんなに長時間、コーヒーを提供しなければならないのだ?」や「なぜ、理不尽な要求をするクレーマーにもコーヒーを提供しなければならないのだ?」、あるいは「なぜ、こんなにも売上目標を追求しなければならないのだ?」ならあり得る。だが、「コーヒーを入れる作業」そのものを心の底から嫌悪するような愚痴は、果たしてあり得るだろうか?

人生の一部の時間を使って、誰かの役に立つことをすること。それが強制的でなく、不愉快な態度で強いられるのでなく、長時間でなければ、人はそれを喜んでやる。

電車で誰かに席を譲ったとき、誰かの落とし物を拾ってあげたとき、友達に手料理を振る舞ったとき、誰かの荷物を持ってあげたとき、それが自発的なものであったなら、誰しも満ち足りた気分になるはずだ。

そして、誰かがサポートを必要とする場面に出くわしたとき、人は自発的に手助けしたいという気持ちになるはずだ。もしそうしない人がいたなら、彼は逆に「手助けしないこと」を正当化するために心の中で延々と言い訳している。「逆に迷惑なんじゃないか?」「偽善的だと思われるのではないか?」「自己責任なのではないか?」「甘やかすことになるのではないか?」と。

人は誰かに貢献したいという根本的な欲求を持っている。それを自発的な形ではなく、強制的な形で引き出そうとするのが「労働」という営みである。

当たり前だが、強制的な形で人に貢献させようとするのは、効率が悪い。自発的な動機で人に貢献する方が効率が良いことは明らかだろう。つまり、労働という営みは、人の貢献欲を引き出す上では、極めて効率が悪いのである。

そして、強制的な労働が、誰かに貢献することが一切ない事態もあり得る。それがブルシット・ジョブである。

ブルシット・ジョブは、人の役に立つことすらなく、ひたすら屈辱に耐え続けるような仕事を意味する。

そのような仕事を嫌悪することは、果たしてその人が怠惰であることを意味するだろうか?

人は、ブルシット・ジョブを含めた屈辱的な労働を嫌悪する中で、「自分は他者への貢献を嫌悪する怠惰な人間である」という自己認識を強める。そして、その自己認識の中で、日々労働に忙殺されるのである。

ならば、労働以外の時間で、他者へ貢献できる場面があったとしても、「貢献のためのエネルギーを節約しなければならない」という脅迫的な観念に襲われるのは当然だろう。なぜなら、貢献のためのエネルギーは貴重な物であると彼は考えているからだ。実際は、屈辱に耐えるためのエネルギーが貴重なのであり、貢献のためのエネルギーは泉のように湧き出ているというのに。

そして、「労働」「貢献」の対極には「消費」や「娯楽」が配置される。エネルギーを消費して労働を通じて貢献し、その対価として消費や娯楽を楽しむための金が手に入る、と人々は考える。ならば、ニートが日がな一日娯楽に興じることも、家族を持つ人がこぞってレジャー施設や観光地に向かうことも、当然の帰結だろう。自分が労働や貢献を嫌悪しているということは、娯楽に興じる自己中心的で怠惰な人間であると自己認識しているのだから。

しかし、「労働=他者への貢献」という前提がなくなれば、「労働を嫌悪する=怠惰」という方程式は成り立たなくなる。

むしろ、無意味に消耗したり、人から搾取したりするような労働を拒否しているという意味で、その感覚は道徳的なのである。

僕たちは「労働」が何を意味するのかを、そろそろ真面目に考えなければならない。労働を嫌悪する人を道徳的に攻撃するのではなく、なぜ彼が労働を嫌悪しているのかを、冷静に見極めなければならない。すると気づくはずだ。労働が、人の幸福を破壊していて、人の貢献欲を非効率に組織化していて、社会を非効率にしているということに。

「働きたくない」という気持ちは、人間として真っ当な姿であると言える。だが、その理由を正確に把握している人は少ない。僕はこの文章を通じて、この新しい労働哲学を通じて、「働きたくない」を肯定する。

そして、人間についての理解を更新したい。僕たちは怠惰ではないのだ。

私たちは怠惰であることを一度も望んだことはなかった。もしそれがベッドに転がって天井を見つめていることだとするのならば、誰がそれを渇望するというのか?

ホモ・ネーモ『労働なき世界』



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