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「毎日更新やめます」へ向ける2種類の寂しさ

僕は特に宣言しているわけではなく、厳密に守っているわけでもないが、毎日更新に近いかなりの頻度でnoteを更新している。

こうみると月20〜30記事といったところか。毎日更新は言いすぎだが、毎営業日更新くらいだ。要するに僕は人々が「毎日働いている」と感じている程度には「毎日更新している」と感じている。

そして、僕がフォローしている人の中には似たような人がいる。文字通り毎日更新している人もいれば、僕みたいな「セミ毎日更新」みたいな人もいる。が、そういう人は時折り次のように宣言することがある。

「毎日更新やめます」と。

理由はたいてい、「最近、忙しいから」というものだ。当然そのことについて僕はとやかく言う権利を一切持たない。持たないわけだが、なんだか複雑な感情を抱いてしまう。

これは一体なんなのか? このスパゲティコード化した感情を紐解いてみると、1つにはその人の記事を毎日読めないという寂しさがある。これはまぁ至って真っ当な感情だと思う。

だが、僕が抱いた複雑な感情の成分構成はそれだけではない。他には「まるで、ほぼ毎日更新している自分が、日常において大してやることがない、つまらない人間である」とまざまざと見せつけられたような気分も感じている。「え、お前まだコロコロコミック読んでんの?」と地元の友達の阪井に言われた中一の夏休みのような、そんな気分だ。

自分の知らない遠い世界でなにか崇高な行為に取り組む相手と、つまらないことにいつまでも固執する自分。気づいたときに「7/19飲み会🍻」みたいなグループLINEのメンバーが自分1人になっていたときのような、あの切なさ。

もちろんこれは僕の被害妄想だ。毎日更新をやめる人にそのような意図がないことは明らかだろう。しかし、どうしても僕はそんな風に感じてしまう。

別に毎日つまらないことをしていても何も恥ずかしいことではない。つまらなかろうが、バカにされようが、やりたいことをやればいい。

それでも、僕がこのように感じてしまうということは、僕は「重要な活動を行なっている」と誰かに認めてほしいのかもしれない。

こんな気持ちはない方がいいのだろうか? なくてもいいが、誰かに認められることは間違いなく人生における喜びの1つだ。誰かに認められたい気持ちだけで心が溢れかえっている人は病的だが、誰かに認められたい気持ちが全くないことも病的かもしれない。

とはいえ、自分の主人は自分でありたい。ほどほどに認めてほしいと感じながら、認めてもらえなくても最終的には気にしない。それくらいの感覚でいいか。

ありがたいことに僕のnoteを読んでくれる人はいるし、フォローしてくれる人もいる。でも、仮にこの人たちがいなくなっても僕は書き続けると思う。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!