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いつものアレによる気づき

 先日、実家に帰ったら、いつものようにアレがはじまりました!

「なんてよ?」

 そう、両親とも耳が遠くなってきたのか、ボソボソと話すと「ええ゛??」と両者が聞き返し、声も大きいし、一見、夫婦喧嘩かという勢い。(疲れないの?そばで聴いてる方が疲れます)

 よくやるよなぁ、毎日毎日……というのが娘としての正直な感想です。

 この日も、「どちらも、言い方さえ変えていれば……」という、とてつもなくしょうもないことで、言い合って(言い争って)います。

 母は、スパゲティを湯掻いています。私と妹、甥っ子が昼食時間にいたので、合計5人分の量ですから、結構な分量です。茹で上がって、さあソースをかけるぞ!という段階にきました。お皿も4皿にスパゲティが盛られています。いつものミートソースも温まりました(もちろんレトルト)。
 待ちかねた父が、さあ、と手を伸ばした瞬間、

「お父さんのは待ってよ! 今からゆがくから!あとで」

 母以外はポカンとしています。すでに4皿に分けられた、熱々の麺が目の前にあるというのに、それを放置して、待てというのです。まあ、甥っ子はすでにフーフーしてもらい、大きく口を開けてスパゲティを頬張っています。

「なんで?」

 と聞くと、

「お父さんの麺は、折らんとゆがかんなんのよ!(折らないで湯掻かないといけないの!)」

 とイライラ。説明すら面倒くさいという雰囲気。疑問に思って、私は隣の父に、長さが2分の1になった麺は嫌なのかと聞きます。父は「そんなことはない」と首を傾げています。そこで、この2人の今までの全容を見ていた妹はこう言います。

「違うでぇ。前に麺を折って湯掻いているのを見て、お父さんが『なんで折るんな?』と言ったことを根に持ってるんやで」

 と。つまり、母にとっては、父の「なんで折るのか」は(言い方を含めて)否定だったわけです。父は「折られるのが嫌だ」とは言っていないのですが、母の脳内ではこの瞬間に、「否定された=嫌なんだ=今度から折らない」と決定されていたのです。

「折った方が茹で時間も短いし、麺が鍋に収まりやすいんよぉ」

 なんて、その時は優しく言う余裕も当然なかったみたいです。

 そして父は今、
「わざわざ別にしてくれてありがとう。楽しみに待っとくよ!」
 ということもなく、ムスッとしています。

ギューーーーーーン !! です。

 この歳(42歳)になっても、両親の不仲が心にダイレクトダメージなのです。

「まともに相手してたら、骨折れる」と、慣れっこな父も、顔には出ちゃっています。

 結局、父は時間差で茹で上がった長い麺を待つことに。目の前の一皿分のスパゲティも湯気さえすっかり元気を無くして黙り込んでいました。

 もちろんこれは一例です。日々、こうなのです。

 変なこだわりを貫き通す母に、言い返さずに合わせた方が楽だから大抵はそれに家族全員が合わせています。


 だって、どうでもいいから!!


 そこに意見を述べても、彼女のこだわりの前には、通らないことをよく知っているから。

 私は結婚後、家を出てから、実家に泊まることは無くなりました。すぐに合鍵を返したのです。
 「落ち着きたいから(休みたいから)実家に帰りたい」と思うことはなく、「落ち着かないから寄らない」と言う気持ちが大きかった。最近まではそれに罪悪感を抱えていました。

 学生の頃、2年の引きこもりで心配をかけたのに、冷たいかなとか、「社会的に安定した正社員になる」ことや、期待通りの道に進めなくて申し訳ないよな、とかが主な心のしこりです。
 実際、私と弟、2人とも最終学歴となるべき期待されたところで挫折して、中退していますから、「お金をドブに捨てた」という表現で辛く当たられた時は、一番キツかった!
 実際、申し訳ないと思っているのに、です。(たぶん、私が親でもそう思ってしまうことでしょう)



 長年の間、家族が助け合う、じゃなくて、互いに過干渉という状態だった。うちの家族は変な方向に偏屈で特例かもしれませんが、そういう「家族は〇〇しなくてはならない」とか「夫婦は〇〇べき」というのは、多かれ少なかれ、家族像として刷り込まれていたのではないかと思うのです。

 挟まれる子ども、一番しんどいよね、です。

 外にはいい顔ができる両親。おそらくどの家庭でも、そういう仮面の部分はあるでしょう。外に(公に対して)一生懸命になるばかりに、内に対しては「あとで」とか、「大丈夫だろう」、「自分でなんとかして」という、言ってしまえば、雑な部分で今まではなんとか乗り切ってきた。

 逆、だったんでしょうね。

 自分、家族、そして、外側。もちろん、外にも支えられていますから、丁寧に対応することは大切です。

 いい格好しようとか、見栄の部分を削ぎ落としたら、もっと見えてくるものがあるような気がします。

 些細な会話にも、「ありがとう」を挟むこと。

 結局、これだと思います。あとは素直に「ありがとう」を受け取ること。

 長年の染みついた「当たり前」が、ここを見えづらくしているんですよね。

 家族だけど、ひとりひとりの人なんですよね。



 今週もご支援いただき、ありがとうございます。

 ※メンシプ記事ですが、全文公開としています。


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