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朧月恋花 第3章 薔薇⑤

【前回までのあらすじ】


 家庭用品会社に勤める小石希。三角関係の末、恋人も親友も失ったまま孤立。その痛手をまだ心のどこかに置いたまま、平静を装う自分にやっと慣れて来た。仕事でも上司や同僚との付き合いに適切な距離感を見出し、うまく折り合いをつけ、適応しはじめていた。久しぶりに、取引先の棕櫚加工工房の吉川和也の元を訪ねることになり、吉川の誤解を解くチャンスが巡ってきたというのに、いつの間にか吉川の事を意識してしまい、予期せぬことを口走ってしまうが……。



朧月恋花 第3章 薔薇 ⑤

 水が完全に沸騰するまでのわずか1分足らずの間で、希は我を取り戻した。
 今は、仕事中。ここには仕事で来ている。呪文のように心の中でそう繰り返し、自分にリセットをかけた。過去の痛手が強靭な鎧を作り出し、それを即座に着ることを覚えたのか、瞬間的に心を凍らせる技を身につけたのか、目の色も変わった。
 ポロリと出てしまったさっきの本音も、吉川の耳に届いていなさそうなのをいいことに、都合よく忘れてしまおうとしていた。表情を変えなかった吉川の対応にこそ、救われていた。


「せっかくだから、希さんの持ってきてくれたチョコ、開けてもいいですか? 何てい言うんだっけ。お持たせですみません、だったかな」


 棚の右端の羊羹をすでに広げているというのに、一旦左端に置いていた希の新入りチョコも、一緒に食べようと勧めた。さっきすれ違った上質レディ成宮が持ってきた差し入れも、その棚にあるのだろう。希は、また要らぬ感情で心が揺れぬよう、仕事の話に意識を集中させた。


「吉川さん、この度は、何かと、突いたり引いたりで、失礼があったかと思います。誠に申し訳ございませんでした。私の一存でどうにかなるものではないのに、こうして私を営業担当にご指名いただき、取引を再開していただけて、感謝しています」
「希さん、今更、堅苦しいですって」
「いえ、こういうことはきちっと謝罪して伝えておかないと……」
「うん、まあ、そういうところが好きだから、希さんに担当してもらえるなら、こちらからお願いしたいと思ったんです。確かに、そちらの部長さんの言い方には、腹が立ちましたけど、こちらとしても仕事があるのは有難いことですから。もちろん、製品は希さんが来る時刻までに、そこに用意してあります。僕だって、プライドを持ってこの仕事をしているのですから」


 やはり、そうだった。部長の尻拭いはだいぶん慣れたが、そういう言い回しをしたのだろう。目先の採算や経費のことでパニックになると、カットすることしか考えられなくなる癖があった。落ち着いて判断すればいいものを、自分が慌てふためき、社員ばかりか、下請け先をも右往左往させる。苦し紛れに、上下関係をチラつかせ、威圧をかけるようなことを罪悪感なしにやってしまうのが部長だった。どうやらそのことも分かっていて、吉川は冷静に事の次第を捉えているようだった。


「ちょうどいただいた珈琲で休憩したいと思っていたんですよ。一杯分のお時間だけ、お付き合い願えませんか?」
「……はい」


 懐かしい香りがした。紛れもなく元カレ、コウの焙煎した珈琲だった。あれから一度も口にすることが無かったものが、突然、目の前に現れた。深く苦い湯気が漂う珈琲と吉川に向き合えた希は、何か一つ、乗り越えた気がしていた。   


(続く)


【あどがき】

 1ヶ月が早すぎて……怖い。そして、めちゃくちゃヤバいことになってきています。何って、原稿の話です。

 向き合う時間が長ければ長いほど、集中すればするほど、自分の中で、欠落していく何かに気づいているのです。

 ある日、私はそれをお茶していた人に「実は、今まで以上に集中できるようにはなったけれど、物語を描くのが怖い」と告白したら、「それは、コンフォートゾーンを抜ける前兆によくあること」と答えが帰って来ました。

 つまり、自分がいた環境から抜け出て、どこかに一歩踏み出そうとする時、自ずと、時間と経済的なバランスに優先順位をつけて行動するため、いままで通りでは行かなくなる。それに対しての寂しさや不安は付き物だというのです。

 確かになと思います。

 そして、いままで、この不安に負けてしまったがために、いつまでも同じぐるぐるに陥って、見失ったことや、ブレたことも明確に。

 劇的に人が変わったように転身とまでは行きませんが、徐々に改善。コツコツ前向き。7割ネガティブも3割ポジティブ人の香月にいなでも、どうにかこうにか、なるようになるようです。


 いつも応援してくださり、ありがとうございます。

あいとかんしゃをこめて。 

2021年9月15日

香月にいな



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