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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語1〜

スカンジナビアの空に折り重って広がる雲間から、切れ切れにミニチュア細工の風景が流れてゆく。搭乗機の高度が下がるにつれて、マッチ箱が擬態したような家々の色彩が夏の陽を浴びて濃くなってゆく。窓越しの景色にはただ距離感だけが失せていた。手を伸ばせば触れられそうな、そんなありえない立体感が視界に貼りつき日常感覚を揺さぶる。

流れる風景がはっきりとした陰影を宿し、地上のうごめきが徐々に大きくなり始めたとき、意識はゆっくりとモノクロへと吸い寄せられていった。


安達啓介が外務公務員としてヨーロッパへ赴任して三年が過ぎた。最初の二年間は研修としてイギリスの大学に学んだため、実務経験としては赴任先オランダでの一年と少しに過ぎない。「外交官」と言えば聞こえはいいが、大使館での仕事は世間が想像するほどスマートなものではない。
啓介の毎日はそんな言葉の響きとは無縁のところにあった。つまるところ啓介は新参者で経験の浅い社会人であり、大使館勤めは日々の雑用の中に埋没していた。時折「大物」が勤務地に立ち寄ることがあり、その時だけは仕事のリズムに変化が加わるのだが、そんな非常事態は稀にしか起きない。東欧社会が見慣れた地図を劇的に書き換える中、啓介の神経は平穏にだけ敏感であろうとした。ルーティーンこそが居場所であり、隠れ家であることを実感しながらオランダでの日々を送っていた。

走り始めた「異端」はもう止められない。

意識の表面に現れることはないが、静止した風景の中に突如吹きゆく感情。平凡の中で、この漠然とした思いが常に体のどこかに潜んで呼吸していることも同時に感じている。そのことを自覚することでどうにかここまで来た。それを放棄することは敗北を受け入れることに等しいのだとの予感もある。後にやってくるものはまだ言葉で表現することはできないが、輝かしものでないことも想像がつく。今の啓介には後へは戻れないという意識の濁流だけが前へ進む原動力となっていた。皮肉にも、この濁流が今となっては現在の場所で穏やかなせせらぎを奏でているのだった。


飛行機を降り、到着ゲートを出て電車に乗った。走り始めた車窓の景色を眺めるともなく、ぼんやりとただ視線だけを流れにゆだねる。手持ち無沙汰な時間は色の落ちた記憶を次々と頭に招き入れるから厄介だ。しかしそんな葛藤が重くなる前に電車は減速を始め、想像していたよりも早い到着の予感に精神は救われた。窮屈になった気持ちを揉み解しながら席を立つ。

午後一時半。オスロの街は鷹揚として啓介を迎えようとしていた。

終着駅であるオスロ中央駅の構内を抜けて目の前に広がった光景には、機内から見下ろした眺めとはうって変わったような午後の生きた光が溢れていた。夏は平等だった。いや、日本や、あるいはオランダと比べてもどこかよそよそしさのある北欧の日差しにギラギラしたものは感じられない。暑くなりきれない空気にひんやりとした匂いがどこかに混じる。そんなぎこちない陽光であったが、確かに、そしてそれゆえにせっかちに夏の存在を伝えようとしている。啓介はしばし、北の太陽のメッセージを体に感じとめた。

オスロ、そしてノルウェー・・・。

啓介はこの街もこの国も知らない。ただ、大使館内の人間関係の隙間に開いた数日を夏期休暇に当てることが許され、なんの目的もないまま流れ着いた。ノルウェーと聞いて頭に思い浮かぶものは・・・、学生時代によく耳にしたa-haというグループのTake on meという曲だけだった。そう思って改めて周囲を見渡した時、脳裏にはシンセサイザーによるあの軽快なイントロがこだました。その軽快なリズムにすがりながら周囲を観察する。

駅前の空間は前後左右にゆったり広がり、人々が気ままに歩き、座り込み、歌い、飲み、食べる光景が横たわっていた。それらのすぐ先を路面電車がすれ違う。日本のものとはまた異なる独特の駅前空間。ヨーロッパではよくある風景だった。日差しを受けた人々の色とりどりの髪と肌がキラキラと眩しい。ひらけた場所にしばらく立っていると、慣れ親しんだ遠近感が手を差し伸べる。

正面の遠くに古い塔が見えた。先の方を見やると、それが教会であることがわかる。年月が積み上げた重みは黒ずんだ壁が語っている。古い教会のあるところがその町の中心であることは、ヨーロッパで暮らす者が手にする自然な感覚だ。この街で何かをスタートさせるにはまずそちらの方へ足を向けよう。そう無意識が囁いた。

「まずはホテルを確保しないと・・・」

手まねきに抗う呪文のように、啓介は自分自身に告げた。そして微笑むようにそびえる塔から無理やり視線を引き剥がした。薄雲を刷いたような空を見上げた時、北の太陽が相槌を打った。


程なく見つかったホテルは、いささか窮屈な空間にとりあえず全てを押し込んだような一室だった。テレビはあるが、多分電源を入れることはないだろう。窓もあるが従業員が出入りするホテルの勝手口が見下ろせるだけの代物だ。手を伸ばせば届きそうな距離にある壁が、ただ退屈な表情でこちらを見つめている。部屋を変えても良かったのだが、関心もないままに流れ着いた自分にはこうした場所はむしろ御誂え向きにも思われた。

ふと、枕元にあるガイドマップに目が向いた。確たる理由もないままに手が伸びる。オスロという町に何があり、ノルウェーという国がどういった顔を持つのか、この時まで啓介は興味を向けることはなかった。

「なんだか観光客みたいだな、俺」

誰かに話しかけるような独り言に短い笑いが続いた。くしゃくしゃに丸めたような自嘲。その笑いはすぐにため息となって壁にぶち当たると、ざらざらした壁紙の上をどろりと伝い落ちた。落ちた先には帯同したスポーツバッグが無造作に横たわる。それは日本から送られてきた憂鬱ではちきれそうになっていた。

「・・・お母さん、もう離婚しようと思ってるの。・・・」

今月初め、不意に届いた手紙が捨て去ったはずの記憶に息を吹き込んだ。


啓介の実家は代々医業を生業とした家系だった。江戸時代から続くと言われたその系譜は、現在では医学界では知らない者がないほどの名声と影響力を安達家にもたらしていた。その一族に生を受けた者はその系譜を引き継ぐ。それが積み重なり、広がってゆくことで、未来永劫、一族の地位を安泰にすると信じられていた。このことは安達家の血を引く人間にのみ定められた宿命ではない。外部からそこに入ってくる者にも同様に背負わされた。啓介は物心ついた頃にはぼんやりとその掟を感じるようになっていた。

ただ、父が選んだ伴侶は医師ではなく看護師だった。それは一族にとって一種の穢れにも等しい出来事であると受け止められた。嫁いできた母祥子も自身で早くにこの時代錯誤的な空気を感じていたようである。

父喜一郎は祥子をどう受け入れたか?

兄と妹のようには勉学に馴染めず、どこか反抗的な態度を見せる啓介を母親は何かと身近に置きたがった。それが答えだったのだ。

啓介は自身が両親の間に横たわる溝に棲まう身であることを幼い頃から肌で感じ取らねばならなかった。母祥子と啓介はお互いの中のどこかに同じ根を見、父喜一郎はただそのことに無関心を装い続けた。父はしきたりを打ち破ってまで自らが選んだ伴侶を守るほど強い意志を持ち合わせていなかった。

祥子は決して家族を悪く言うことはなかった。彼女は自らの置かれた場所で演じるべき全てのことを完璧に理解していた。しかし自分の両親と完全に切り離され、やがて兄と妹が医学の道を志すようになってからは、こうした態度は母翔子を深い孤独へと追いやっていったのだと啓介は思っている。
幼い頃に目にした母の屈託のない笑顔。啓介は母翔子の中で人間的な温もりが立ち枯れてゆくのをどうすることもできないまま、ただ見守るしかなかった。

やがて、そんな両親の間に広がる虚の闇から逃れようと啓介は密かに反抗を開始する。気がつけば、医学の道から逃れるような選択ばかりをしてきた。高校では理系科目を疎んじ、大学進学ではさしたる興味もないままに文学部を選んだ。こうした進路選択によって啓介は安達家の掟から解放されたが、同時に安達家の一員であるという事実も過去になった。

「もうあなたの顔も兄や妹の顔も見ることはないでしょうね」

それが父喜一郎に最後に投げつけた言葉だった。想像していた「快心」とは程遠い、出来損ないの感情だけが心の底に残った。

以後の啓介は自身の力だけで生きてゆくことを考え続けた。実家からの援助は完全に途絶えたため、大学は少しでも学費の安い国立大学を選択し、アルバイトに明け暮れた。それでもサークル仲間と酒を酌み交わし、恋人と呼ばれる存在を手にする時期もあった。確かにたしなみ程度には学生生活を謳歌したつもりだが、今思い起こせば、それは行き着くあてのない流れに身をまかせるだけの日々に過ぎなかった。


時間というベクトルがもたらす人・物との出会い。ぶつかり合い、擦れ合うことによってできる擦過の跡とそれによる精神の厚み。季節の移り変わりを記録する年輪のような、時を背負って生きた人としての精神的含意を啓介は自身のうちに見出せなかった。啓介は何かとぶつかり合うことをずっと避けてきたのだ。ただ「普通」だけを求めて周囲を見渡すだけの日々。思い出と呼ばれる断片を寄せ集めたところでピントの合わない影絵の重なりだけが脳裏をよぎってゆくのだった。

そんな啓介が卒業後に選んだ進路が国家公務員だった。公務員でも日本を極力離れることのできる外務公務員。それは自らの出自に通じていた全てのものと切れてしまいたいという小さな意志の集大成であり、居心地の良い隠れ家を手にした瞬間でもあった。

外務省入省後、イギリスでの研修を経てオランダという未知の国へ流れ着いた。全てが望む方向へ進んでいる感じがあった。しかし出来損ないの言葉を吐き捨てて以来、自分がどこに向かっているのかについてはまだ何も明らかになっていない。どこか向かう先を持っているのかさえ不確かだ。

何もかもが手探りさえできないまま、ただ外交官としての悪くはない日々に身を沈めた。
着任早々の新参者に期待されていたことは館内の雑務一般だった。余りもののような小さな仕事をただ前例に従ってこなす職務は、生きることをただ角が立たないようにやり過ごそうと決めた啓介にはぴったりである気もした。やりがいなどという世間一般の価値観は自分には無用のものだとうっすら感じていた。ルーティーンに己を埋没させ、一族の掟からできる限り距離を取ること。全てはそこに還元されていった。

啓介が安達家を追われて以来、家族との接点も失ったが、母祥子だけは記憶の絆を繫ぎ止めるようにいつも突然の便りを寄越すのだった。最近メディアを賑わす医療事件との関わりには一切触れることなく、かの一族での毎日と母祥子の自分語りだけが綴られた便箋。それがかえってスキャンダルの本質を伝えようとしているように思えるのだった。


空気の密度も重く感じられる部屋で一人地図に視線を落とす啓介。かつて肌色と呼びならわした色彩が乾いた焦点を受け止めた。静止した時間が流れる。灰色と肌色と黄緑色が縺れ合う紙切れの上で視線が揺らめく。突然、Munchの文字が飛び込んできた。

「ああ、そういえば・・・」

啓介は画家ムンクの名を思い出した。彼の代表的作品である「叫び」が、記憶に沈む美術教科書から蘇る。ぐにゃりと歪んだ感情が湧き上がってきた。太い線が左右に流れる濃い夕焼け空。くすんだ平面と淀んだ感覚。皮肉なことに、今、その異形が啓介の感情を揺り起こした。地図に溢れる小さなアルファベットの数々。それらを拾い集め、意味を引き出し、生身の意識が覚醒する。

とりあえず現物を見ておこう。

啓介がこの休暇の目的を手にした瞬間であった。

さらに視線は探し物を求める。
Viking Ship MuseumとNorwegian Museum of Cultural Historyを探し当てた時、この北欧の小国での時間が「旅」となった。

準備がようやく整った。引き攣っていた気持ちがほんの少しほころんだその時、啓介の脳裏に数ヶ月来日本の新聞で目にしてきた一連の活字が閃光となって駆け抜けた。感覚が再び急激に色を失ってゆくのを感じた。



後記

『ソールヴェイの歌う風(一)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。特に音楽はノルウェー語の楽曲を中心に、どれも私自身が創作中にBGMとして耳にしてきたものばかりです。この機会にノルウェーの音楽についても知っていただければ幸いです。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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