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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語5〜

オスロを離れて二時間近く経ったあたりで、ニーナはランチタイムを提案した。時刻にすればとうに十二時を過ぎている。啓介はずっと座りっぱなしで足腰に疲労を感じていたため空腹感はなかった。しかし感じている以上に体がかちかちになっているはずである。ひとまずどこかで緊張した筋肉を緩める必要があった。

かたわらではニーナが地図を広げ、真剣な眼差しを落としている。額から鼻梁へと架かる光の階調に、どこか憂愁の翳りが見えるのは気のせいなのか。

そんなことを気にしながら、ちらちらとその面貌を傍でうかがう啓介。その視界の底にはいつの間にか鏡のように冷えた水面の景色が浮かび上がっていた。そしてそれは無機質に広がる真空の静謐となって時間を堰き止めた。時の境界が可視化されそうな不思議な感覚。その向こうから、やがてそっと手が差し伸べられた。

「あの、ちょっとルートを外れてもいいですか?」

遠慮がちにそう言うと、栗色の瞳は幹線道路から枝分かれした道に入るよう促した。ギリギリ片側一車線といった感じの両サイドに木々が迫る細い道だった。対向車とすれ違う際はそこここに設けられた道端が広くなっている路肩にどちらかが退避する。啓介は何度かノルウェー人ドライバーと道を譲り合った。路面からタイヤを通して伝わる滑らかな振動がかさついた感情を潤した。

しばらくその道を進むと、やがて左手に大きな湖水が現れた。それが途切れ途切れの木々の間で見え隠れを繰り返す。時折、木々の間隔が広くなった風景の先に深く静まる湖の全体像が見渡せた。その湖畔に見つけた小さいパーキングスペースの一つに二人の車は進入した。エンジンを止めると車内は聴覚を失ったかのような静寂に突然抱き抱えられた。

ドアを開け、足を踏み出す。砂利の小さくきしむ音。かすかに風が舞い、歌う。外気は車内より低く、ひんやりとした陽の光に体全体が包まれた。嗅覚をくすぐるのは柔らかい風に混じる緑の気配。遠くから名も知らない鳥のさえずりが届く。対岸の山並みのなだらかさにどこか懐かしさを感じるが、確かに初めて見る風景。デジャヴュが現実と記憶の隙間に割り込み、均衡を弄ぶ。

啓介は他人の気配の全く無い空気を胸に大きく吸い込んだ。

「あの、食べられないものとかなかったですか」

車の向こうからデイパックを持ち上げてニーナがたずねた。

「大丈夫。なんでも食べられるよ」

好き嫌いがないというより、啓介は食べることに対して既に全く関心がなかった。


「ノルウェーの人は幸せだね」

「え?」

湖畔に設置された木製のキャンピング・テーブルに腰掛けながら啓介が呟いた。

「オスロの真ん中で都会暮らしをしていても、車でちょっと行ったところにこんな絶景の場所があるんだから」

周囲を見渡しながら、改めて心が洗われる光景の中に自分が溶け込んでいることを確認する。プロの写真家が撮った渾身の一枚という風景写真ではなく、それでいて常人の想像力の枠いっぱいに収まる神々しさ。それはぎりぎりの境界内で手が届く精神の贅沢品だった。そしてその贅沢な時間は心の表面に浮き上がった斑点を癒してゆく。

ことん。

静謐の中にポットの底がテーブルを打つ音が響いた。

「コーヒー、飲みますか」

「うん。ありがとう」

冷えた空気に熱いコーヒーの香りが溶ける。絶品の風景が隠し味のようにコーヒーを味わい深いものに変える。

弁当の内容はニーナ手作りのノルウェー風サンドイッチといったところだ。

パンにチーズやハム、野菜を挟んで食べるいわゆるサンドイッチはヨーロッパでは普通に口にする食べ物だが、今目にするそれは明らかにオランダやイギリスで目にしたものとは異なっていた。パンには様々な種類の豆類が混ざっている。その歯ごたえと香ばしさがサンドイッチの具であるノルウェー産ハムやサーモンと絡まり合い、それぞれ独特のハーモニーを奏でながら口内に広がる。食べる者を飽きさせないニーナの心遣いが感じられた。少し異質だったのがブラウンチーズだ。

「これって、チーズだよね」

オランダやイギリスでは経験したことのない味だった。北欧では牛乳や山羊のミルクで作ったブラウンチーズが特産なのだという。

啓介の胃袋は知識と食べ物、そして一人のノルウェー人女性の心遣いによって満足感に満たされていった。


昼食後、程なくヘッダールへのルートに戻った啓介たちは背後に低い山を従え、浅く開けた谷状の地形を見下ろすようになぞりながら進んだ。雲に弄ばれた日の光が、広がる風景を時折スポットライトのように影に日に照らし出す。啓介は初めて目にするその光の舞台の演出に心を洗われた。

さらに進むと、一転して今度は針葉樹が空に突き刺さるように迫る景色が待っていた。車を数時間運転しているだけでノルウェーの自然は実に様々な個性的な顔を見せてくれる。啓介はその懐の深さに驚嘆した。

やがて、赤いボルボ440は程なく見つけたパーキング・エリアで二回目の休憩に入った。

「あの、ちょっとそこで電話をかけてきてもいいですか」

車を降りようとした時、公衆電話を視線で指しながらニーナがたずねた。

「もちろん」

先に車を降りたその人は一人大型トレーラーが並んだ駐車場を横切って歩き始めた。啓介は自らも車を降りながら、その姿を追った。遠ざかる背中が残す無言の軌跡を思い描く。そしてその先に続くであろうまだ見えない道を想像した。


どれくらい時間が経ったのだろう。一足先に車内に戻った啓介は手持ち無沙汰な待ち時間の中、理解できないラジオ放送に耳を傾けていた。こうして改めて聞いてみると、ノルウェー語というのはなかなか耳に心地よい言葉に思える。基本的にドイツ語のように頭に入ってくるのだが、思った以上に抑揚があるのでイタリア語のようにも響く。オランダ語にある引っかかるような音もない。また日本語にない中間的な母音を多用するので全体として柔らかく、そこに舌を使った発音も頻繁に混じるのでコロコロとした可愛い印象もある。

啓介はこの言葉でニーナと気持ちを通わすことができたなら、自分の中にどんな変化が起きるだろうかと考えた。それが決してネガティブなものではないことが予想できた。

ふと前方にニーナがこちらに歩いてくるのが目に入った。気のせいか、きらきらした日差しの中のその姿はどこかうなだれた様に見えた。

啓介は素早く車を降り、助手席側に回り込んでドアを開けた。上目遣いにありがとうと言ったその目には涙の跡が滲んでいた。

「どうしたの?」

驚いた気持ちがそのまま台詞となった。

ニーナは一瞬瞳を合わせたが、すぐに逃げるように下を向くと黙って助手席に体を沈めた。啓介はフロントガラスに透ける傷心のありかを探りながら運転席に回り込んだ。そしておずおずと体を車内に滑り込ませた。並んだ二人の間に会話のとっかかりも見出せない沈黙が流れた。

「何かあったの?」

啓介の精一杯の問いかけにどう応えるか逡巡しているように、一点を見つめたまま口を固く結ぶニーナ。やがて、涙が一筋左の頬を伝わった。

「母がちょっと・・・」

言葉が沈黙に消えていった。

「お母さん?どうかしたの?」

「病院に・・・」

「えっ!」

予期せぬ答えに言葉を失う。

「ごめんなさい。オスロに戻れますか」

突然、強い口調でニーナが迫った。啓介はその言葉を理解するのに少し時間を要した。

「オスロ?お母さんはオスロにいるの?容体は?」

「いいえ。でも、一旦オスロに戻ってから、明日にでも飛行機で帰ろうかと思います」

「明日?飛行機?」

今度は話の道筋を見失った。

「お母さんって、今どこにいるの?オスロじゃないの?さっき話してくれた場所?」

「母はハウゲスンにいます。今は病院にいるそうです」

「ハウゲスン・・・。でも飛行機って・・・。で、容体は?」

「弟によると命に別条はないそうです」

啓介はのり出していた身を一旦シートに戻した。そして大きく息を吐いた。

「よかった」

ニーナが濡れた瞳でこちらを見つめているのを感じた。

「ハウゲスンまで帰るには直接飛行機か、電車でスタヴァンゲルまで行って、そこからまたバスに乗る必要があります」

ニーナが帰りのルートを説明した。

「ハウゲスンってどこら辺りにあるの?」

ニーナは地図を広げ、場所を啓介に示した。行く予定にしていたヘッダールからさらに五、六倍ほどの距離を行った先にある。

「うわ!結構な距離があるね」

「ええ」

「でも、明日って飛行機あるの?空席は?」

「わかりません」

「じゃあ、電車を使うとどれぐらいかかるの?」

「十時間ぐらいかな・・・」

「十時間!そんなに」

「南の海岸線をずっと回りこんで行くので」

「でも、いずれにしても、オスロまで戻って明日の電車ってことになるよね」

「ええ・・・」

啓介はもう一度地図を睨んだ。ハウゲスンまでの道路はしっかり描かれていた。啓介は腹を括ったように深呼吸を一つした。

「よし。じゃあ、このまま行こうか、その・・・ハウゲスンまで」

「えっ?」

大きく見開かれたニーナの瞳には期待と不安、哀願と謝絶が複雑に折り重なっていた。

「でも・・・」

「今の話だと、これからこのまま車で行くのが一番早く着けそうだし。飛行機だって明日飛べるかどうかわからないよ。緊急事態でしょ。お母さんの容体も気になるし」

時計は午後二時になろうとしている。

ニーナは既に祈るような表情になっていた。

「オスロのホテルはどうするんですか?」

「あ、念のためにキャンセルしてきた。どう予定が変更になるかわからなかったし」

「でも、せっかく休暇で来ているのに・・・」

「それは大丈夫。もともと予定のない旅だったし」

ニーナが目を伏せる。啓介の好意に甘えるべきかどうか逡巡している様子だ。

「僕のことは気にしなくていい。で、ここからだと車でどれぐらいかかるのかな?」

重い視線を持ち上げるようにゆっくりと見つめ返してきた表情にはかすかに安堵の気配が見えた。

「ここから車だと五時間ぐらいかかるかもしれません。あ、でも初めての人が運転すると多分もっと時間が・・・」

「それに休憩を挟むと、あと一時間半は多めにみておいたほうがいいか」

「本当にいいんですか」

「全然大丈夫。それより・・・」

啓介は一瞬言い淀んだ。そして意を決して口にした。

「知らない人とそんなに長くドライブして大丈夫?」

驚いたように瞳が見開かれたが、すぐに笑顔が全てをかき消した。

「あなたのこと信頼してますから」

昨日会ったばかりの人から受け取った思いもよらない言葉に、長年啓介の心にこびりついていたかさぶたが剥がれ落ちた。その下には治りきっていない頼りなげな皮膚がある。完全なものではないそれは、あらゆるものによって切り刻まれてしまいそうな弱々しさがまだあった。しかし今、目の前で啓介に向けられた眼差し。それは傷を負わせるものの眼差しではない。啓介はただ理由もなくそう感じた。そう感じることがまた、自身の中の何かを再生する一つの力に思えた。

「じゃあ、僕はその信頼に全力で応えるよ」

「ありがとう」

「それってノルウェー語でどう言うの」

「ありがとうですか?」

「うん」

"Tusen takk"

ノルウェー語の感謝の気持ちがカタカナの「テューセン・タック」となって啓介の心に舞い落ちた。

「それから・・・」

今度はニーナは少し言い淀んだ。

「少し山を越えることになります」

「山?」



後記

『ソールヴェイの歌う風(五)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。

私はノルウェー語は英語やオランダ語から類推するぐらいでしか原語のニュアンスが掴めず、また翻訳サイトが出してくる日本語も怪しいので、私の書く日本語テキストや心象風景に合っているか不安でもありますが、とにかくそのサウンドとノルウェー語の響きを堪能していただければ嬉しいです。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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