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真心ありきの下心はありなんじゃなかろうか、という話

「卵が先か、鶏が先か」という話になることがある。
今日はその逆の、前後関係が肝心で、それにより印象が180°変わってくる、という話を書こうと思う。

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ここ最近で仲良くなった友達がいる。
彼女とは知り合ったばかりの、お互いのことを良く知らない段階から、なぜか流れでスタジオを借りて、BTSのダンスを躍りまくる。
という一風変わった関係から始まったので、グッと距離も近くなった。

そのうち、仕事の悩みを聞かせてくれるようになった。

問題に踏み込みすぎる
相手に介入しすぎる
ゆえに仕事の時間も要してしまう


それって、真心込めて向き合っているからじゃないの?
仕事にも。相手の人にも。

しばらく考えたのち、彼女はこう言った。

…でも。結構、打算的だなと、自分で感じることもある、と。
ここで相手に恩を売っておけば…という思いがどこかにあるのだ、と言う。


なるほど。

でもね。
相手にうまくいって欲しい、という思いが先ずはあって。
自分が介入することで確実に成功に繋げられる。
そう思うからこそ、時間、労力を費やしているわけで。
で、実際成果にも繋がって。
結果、相手は大層喜んでいる。

それで、相手は「打算的だなコイツ」って思うかね?

仮に思ったとして。
結局、成功(一番得たかった結果)を相手は手にすることができたのだから。
最終的に残るものとしては、感謝や恩義ないんじゃない?と。

真心が打算を凌駕してんだよ、と。

真心が前提にある下心はありなのかもね、と。
二人の中で結論づけた。

冒頭の卵鶏の話だけど。
ここでは、順番が肝だ。

先に真心があった上での下心はありなんだ。
相手はその下心以上の、一番欲しいものをちゃんと手にすることができたのだから。
多少下心が垣間見えたところで、おそらく許容してしまうのではないだろうか。

でもその順番が逆だったらどうだろう?
先に下心がある真心。
この場合は、矢印は自分に向いている。
つまり、(自分が)美味しい蜜を手にしたいという思いが先立ってしまっているのだ。
不思議なもので、そういう思惑は、透けて見えてしまい、相手に伝わる。
真心も、どこか薄っぺらいものとして感じられてしまう。

これって、仕事においてだけじゃなくて、恋愛や他のことにも、よく当てはまることだと思う。


下心はあって当然だ。人間だし、どうしたって欲はある。
それを無理やりなくす必要はない。
でも。
下心のベースに真心があるならば。
もはや下心なんて可愛い飾りみたいなもんなんじゃないかな。

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