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憂鬱な自分でさえ愛せたなら…

先日、まだ知り合ったばかりで、私のnoteを読んでくださった方から、こんなフィードバックをいただいた。

文章から漂う印象は、明るくて光の当たる場所にれいかさんがいるな、と感じました。

そのような印象として受け止めてくださったことは、素直に嬉しかった。
けれど、同時に「それだけでもないですぜ。」という気持ちも湧いた。


ここ最近の空模様のように。
じめっと、湿っぽい、そんな場所にうずくまり、小さく背中を丸めているようなことだってある。
今もちょうどそんな時だ。
普段、その部分はあまり表に出さないようにしている。
だけど、それも確実にわたしの一面。

そう書いていて。
実はそんな自分を受け入れられるようになったのは、ここ最近のことだ。


以前は、そういう自分が好きじゃなかった。受け入れられなかった。認めたくなかった。

だから、堕ちていきそうになると、内省スイッチをオンにして。
ひたすら自己探求…
その鬱々としたものが、どこからきているのか?
「なぜ?」「(抜け出すために)どうする?」と、とにかく沢山の問いを、
自分に投げかけて、いち早くそんな状態から、脱しようとしていた。

それでもウジウジが長引くときは、
痺れを切らした松岡修造さんの如しキャラが現れて、
「どうしたー!?」「ほら、上がれるだろー!」って、
内側から、ガンガンに叱咤する。

はぁ、しんどい…笑


だけど、今は、それをやめた。


やっぱり人間も自然の一部。
バイオリズムっちゅーもんがあるよな、と思うようになったからだ。
ずっと上がりっぱなしじゃないし。
ずっと底に留まっているわけでもない。

波があること。
ゆらぎがあることは、自然のことなのだ、と。
争いようがない。
身を任せてみるのも、良いではないか、と。

そう思うようになって、
ウジウジの自分も受け入れられるようになったら、
外側の世界のやり取りが楽になった。

以前は、そんな状態の時に、投げられたボールに、
敏感に反応し、傷ついたり、イラついたりすることもあった。
それで、相手と衝突したり、摩擦が起きたりして、
お互いに傷ついたり、後悔することもあった。


今は、柳のように、さらりとかわす。
それは、いただいたフィードバックなどを無視する、ということではなくて、感情は横へそっと置かせておいてもらいつつ、ただただ粛々と対応する。
無理にウジウジシーズン最中は、自己探求することも、しない。


そして、例えば、そう。
一旦は、バクッと、何か大きな事柄のせいにしてしまって。
今時期なら、「だって梅雨っぽいし。なんかダルいんだもん。気持ちだってそりゃ堕ちるさ。」みたいな笑

で、調子が上がってきたら、改めて、向き合えば良いのだと思っている。

そのほうが、不毛な争いを起こさずに済む。
お互いを傷つけ合うこともない。
逃げてはないけど、それも一種の「逃げるが勝ち」作戦なのかなぁ、とか、ね。


以上、ウジウジ日記でした。

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