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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第8回

連載第7回に引き続き、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』の疑惑についてご紹介しますね。

■門田隆将氏の疑惑(151)〜(155)

◆門田隆将氏の疑惑 その151

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】33ページ
「私を戦犯にするとか何とか言ふがごときは、児戯に類することである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】51ページ
 根本は口を開いた。
「私を戦犯にすると言うがごときは、児戯(じぎ)に類することである」
 根本はそう言った。静かな口調だった。

「児戯に類することである」という、いかにも軍人らしい堅苦しい言い回しが、門田隆将氏の本でもそのまま使われています。

◆門田隆将氏の疑惑 その152

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】33ページ
 私が戦死したらもはや戦犯にしようとしても不可能ではないか。もし諸君のなかに躊躇する者あらば、私自身○一陣地に赴き、ソ軍軍使を追ひ返さう。もし不可能ならば、戦車に体当りして死ぬだけのことだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】51ページ
「ソ連は、私を戦犯にするとのことだが、私が戦死したら、もはや戦犯にしようとしても不可能ではないか。もし、諸君の中に(戦闘継続に対して)躊躇する者があらば、私自身が、丸一陣地に赴き、ソ連軍軍使を追い返そう。もし不可能ならば、私自身が戦車に体当たりして死ぬだけのことだ」

前回の連載で指摘したのと同様に、根本博中将の手記と酷似した表現が続きます。どんどん行きますね。

◆門田隆将氏の疑惑 その153

【根本博将軍回想録(「師と友」1972年6月号)】33ページ
 私は今から○一陣地に出かける」と言うて立ちかけたら、参謀一同総立ちとなり、涙を流しながら、
 「司令官の決心は良くわかりました。ソ連軍使を拒絶帰還させるのは吾々が直接やりますから、司令官は司令部に留まつていただきます」と言うて、情報主任がこれを引受けて○一陣地に急行した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】51~52ページ
 ひと呼吸おいて、根本は、
「私は、今から丸一陣地に出かける!」
 そう言うや、席を立ちかけた。

「司令官!」
 その瞬間、参謀たちは、総立ちとなった。
「司令官の決心はよくわかりました」

「承知いたしました!」
「ソ連軍軍使を拒絶帰還させるのは我々が直接やります!」
「司令官は、司令部に留まって頂きます」

(略)
 根本司令官の決意を受けて、駐蒙軍司令部の情報主任が丸一陣地に急行したのは、その直後のことである。

◆門田隆将氏の疑惑 その154

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】56ページ
 之を見た私は居ても立つてもゐられない氣持に襲はれ、自分の持つて居る書畫(しょが)や骨董などを賣(う)り拂(はら)つて旅費を作り上海あたりに走せ向つて蒋介石の爲(た)めに一臂の力を添へてやらうと決心し、東京市中はおろか、横濱あたりの骨董商まで探し歩いて品物を見せたり、或は自宅に来てもらつて品物を見てもらつたり、遂には闇成金にまで頭を下げて頼んでみたが、到底上海あたりまで乗り出すだけの金額は工面出來ない。日夜ヂリヂリして落ち着かない日を送つて居た。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】85〜86ページ
 根本は所有している書画や骨董などを売り払って旅費を作り、まず上海に渡ろうと考えたのである。
 大事な書画骨董を売る決意は、すでに根本が「死を覚悟していた」からかもしれない。根本は、東京市中はもちろん、横浜の骨董商まで探し歩いて品物を見せたり、あるいは自宅に来て値決めをしてもらったりした。
 数多くあった掛軸も、忽ち底をついた。それでも資金作りはままならなかった。根本は、ついに闇成金にまで頭を下げて工面を頼んでいる。しかし、上海あたりまで乗り出すだけの金額には到底及ばなかった。

ここから先は、いささか難読な記述が続きますがお付き合いください。根本博中将の手記が「文藝春秋」1952年夏の増刊号に掲載されたものであるため、戦時中に使われていた旧字体の漢字(画数がムチャクチャ多いもの)が多用されているからです。正確を期すため、原文の旧字体を生かしつつ、読みづらい漢字にはところどころフリガナを入れました。

◆門田隆将氏の疑惑 その155

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】56〜57ページ
 私が何故、こんなに渡航をあせつたかと云へば、昭和二十年の終戰當時(とうじ)、私は自殺を決心して居たのだが、部の統率や送還邦人の送還等の責任上其れを決行する機會(きかい)が無く部下や邦人の送還業務の終了まで之を延期して居た。所が昭和二十年十一月北京に来た中國の海軍少將で「カイロ」會議(かいぎ)に蒋介石に随行した人から詳しく「カイロ」會議の内情を聞かされ、日本の天皇制の存續(そんぞく)が蒋介石に依つて擁護されたものであることの事實(じじつ)を知り、
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】85ページ
 自分が行かねば――。
 根本には、蒋介石に対して終戦時の恩がある。それは、四万人の邦人と三十五万将兵を守り、故国日本へ帰してくれたことと、カイロ会談において、「天皇制については日本国民の決定に委ねるべきだ」と主張し、これを守ってくれたという二つの恩義にほかならない。

■門田隆将氏の疑惑(156)〜(160)

◆門田隆将氏の疑惑 その156

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】57ページ
 蒋介石の爲(た)めに一臂の力を添へてやらうと決心し、
(略)
 感激のあまり其の肉體(にくたい)を自殺の愚に落すよりも寧(むし)ろ蒋介石に献上して生かして彼の役に立たせた方が却つて有効であると、遂に自殺の意思を放棄した。(略)若(も)し蒋介石に何か難儀な事が起つたならば必ず走せ向つて彼の為(た)めには犬馬の労を辭(じ)せないと云ふ堅い決意を持つて歸國したからである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】85ページ
 押し寄せる共産軍に自分一人でいいから、日本人としてその恩を返す「何か」をしたい。蒋介石に一臂(いっぴ)の力を添えてあげたい。せめて「死ににいくこと」ぐらいはできる。たとえ役に立てなかったとしても、自分が行って、一緒に死ぬことはできるではないか。

「一臂の力を添へてやらう」という漢語調の独特な表現が、門田隆将氏の本ではそのまま採用されています。

◆門田隆将氏の疑惑 その157

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】57ページ
 有効なる協力が出來なかつたら屍(かばね)を野に曝(さら)せばそれで良い、屍を野に曝さんと決意したら法規の拘束は輕(かる)くなつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】85ページ
「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」
――根本はそう決心した。

◆門田隆将氏の疑惑 その158

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】56ページ
 この時李鉎源と云ふ中國人がヒョツコリ私を訪ねて來て、
「閣下、國民政府から御迎へに來ました。進駐軍の方は勿論(もちろん)、日本政府方面にも默(もく)認を得て私が萬事(ばんじ)手配を致してありますから閣下には何の御迷惑もかけません。唯準備してある船に御乗り下されば、それで良いのですから何卒(なにとぞ)御渡航下さい。船の小さいのが少々お氣の毒ですが
新船で丈夫ですから渡航は御心配はありません」と申し出た。
 私は嬉しかつた。有難い、有難い、と心の中で繰り返しながら、渡航承諾の旨を李に答へ、
出發(しゅっぱつ)に就(つい)ての日取りや行く先等の打ち合せをした。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】87〜90ページ
 根本宅に「李鉎源(りしょうげん)」と名乗る台湾人が現れたのは、そんな時である。
(略)
 突然現われた李青年は、開口一番、根本に向かってこう言ったのである。
「閣下、私は傅作義将軍の依頼によってまかり越しました」
(略) 
「閣下、進駐軍の方はもちろん、日本政府方面にも黙認を得て、私が万事手配を致してあります。閣下には何のご迷惑もかけません。ただこちらが準備してある船にお乗り下されば、それでよいのです。なにとぞ、ご渡航下さい。船の小さいのが申し訳ないのですが、何もご心配は要りません」と申し出た。
 李鉎源の誘いは、ただ嬉しかったのだ。ありがたい、ありがたい、と根本は心の中で繰り返した。
(略)
 根本は「渡航承諾」の意思を李鉎源に伝えた。

◆門田隆将氏の疑惑 その159

【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】4~5ページ
 小田急線鶴川の寓居に、北京からの突然の来客を迎えたのは、桜花爛漫と咲き誇る二十四年四月のある日のことだった。
 李某と名乗る客人は、傅作儀
(中華民国政府軍司令官)からの依頼だとことわって中国における国民政府軍と共産軍の内戦の模様を説明し、国民政府軍が連敗を続けているのでこれを助けてくれないかと申し入れたのである。一口で云えば軍顧問になってくれというわけだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】87〜88ページ
 小田急線・鶴川の根本宅に「李鉎源(りしょうげん)」と名乗る台湾人が現れたのは、そんな時である。桜が爛漫と咲き誇る一九四九(昭和二十四)年四月初めのことだった。
(略)
 李鉎源はこの時、三十歳。根本から見れば、まだ「青年」そのものである。しかし、この青年が語り出した言葉に、根本は耳を疑った。
(略)
 だが、突然現われた李青年は、開口一番、根本に向かってこう言ったのである。
「閣下、私は傅作義将軍の依頼によってまかり越しました」

以前も触れたとおり、中国の軍人「傅作義」について根本博中将の回想録では「傅作儀」と表記していますが、門田隆将氏は「傅作義」と表記しています。これは根本中将が原稿執筆時に誤記したのかもしれません(次項も同様)。

◆門田隆将氏の疑惑 その160

【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】4〜5ページ
 私は話の唐突さに驚ろき、運命の皮肉さに奇妙な感を受けた。というのは、傅作儀は、昭和十九年私が駐蒙軍司令官をしていた当時の当面の相手だったからである。そして傅作儀は多くの日本軍将星の中から特に私を選んで、難局の打開を頼みこんできたのである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】88〜89ページ
 話の唐突さもさることながら、「傅作義将軍」の名が登場したことに、根本は仰天したのだ。それは、根本にとって、忘れることができない名前だった。
 戦争中は、敵同士となり、日本の敗戦後は、武装解除、すなわち武器引き渡しの相手として、根本が「北京への来着」を待ちつづけた将軍、その人である。
(略)
「これは、運命の導きか」
 と感じたのも無理はなかった。
「傅作義将軍は、多くの日本人の将軍の中から、特に私を選んで、難局の打開を頼みこんできたのか」

 そんな感慨がこみ上げてきたのである。

■門田隆将氏の疑惑(161)〜(165)

◆門田隆将氏の疑惑 その161

【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】5ページ
 昭和二十四年といえば、日本はまだ連合国の占領下にあった。再び大陸に渡るということは大変な冒険を伴うだろう。しかし、中国が赤化されることは、日本に及ぼす影響も甚大で黙視するに忍びなかった。私で出来ることなら何とか助力したいと考え、私は大陸へ渡ることを決意した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】89ページ
 日本はまだGHQの占領下である。
 海を渡るということは大変な危険を伴うだろう。しかし、中国が共産化され、
台湾がさらにその手に落ちることは、日本に及ぼす影響も大きく、根本は見過ごすことができなかった。

◆門田隆将氏の疑惑 その162

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】57ページ
 昭和二十四年五月七日の夜「明日から舊【=「旧」の旧字体】部下の所を廻って釣魚をやつて來るから」と家族に言ひ、翌八日の朝、釣道具と僅(わず)かの着換類を持つて
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】93ページ
 翌五月八日朝、根本は釣りの道具と、わずかの着換え類だけを持って鶴川の自宅を出た。目立たない早朝のことだった。

◆門田隆将氏の疑惑 その163

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】57ページ
 東京驛(えき)から鹿児島行きの急行列車に乗つて熊本市に向つた。汽車の中もあまり目立たぬ樣(よう)に
通譯(つうやく)と二人で三等客車の隅の所に座を占めてポケットウイスキーをチビりチビり乍(なが)ら釣の話で過したが、大阪で通譯の細君から「押し壽司(ずし)」と日本酒を差し入れられた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】94ページ
 新宿から東京駅までやって来た根本は、そのまま鹿児島行きの急行列車に乗った。行先は熊本である。
(略)
 汽車に乗り込んでも、根本と吉村は緊張を解かなかった。三等客車に乗り込んだ二人は、目立たないように隅の方の席でポケットウィスキーをチビリチビリやりながら、釣りの話ばかりをした。
(略)
 ウィスキーを飲みながら、時にうとうとしながら、やっと大阪に着くと、そこには吉村の妻が待っていた。
 挨拶もそこそこに、夫人は列車の窓越しに押し寿司と日本酒を手渡した。

「ポケットウイスキー」→「ポケットウィスキー」(「イ」を小文字処理)
「チビりチビり乍(なが)ら」→「チビリチビリやりながら」
などと表記をちょっとずついじってはいますが、根本博中将の手記ソックリです。

緊迫感あふれる密航の途中、根本博中将は大阪駅で押し寿司と日本酒の差し入れを受けました。そのくだりでは「細君」が「夫人」と書き換えられています。

◆門田隆将氏の疑惑 その164

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】57ページ
 翌九日の朝になると何處(どこ)で乗り込んだのか李靑年が來て、都合に依つて博多驛(えき)で下車して呉れと言ふので博多驛に下車した。
(略)
 李が來て居てKと何やら相談をして居る。何日何所から乘船(じょうせん)するのかと尋ねてみると、まだ決定して居ないとの事であつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】95ページ
「申し訳ありません。都合があって、博多駅で降りていただきます」
 どこから列車に乗り込んできたのか、李鉎源が突然現れて、根本にそう告げたのは、五月九日朝のことである。

(略)
 熊本県内の港の方が地理的には近く、便利なはずだ。
 なぜ博多なのか。計画の成否はまだこれからにかかっている。

◆門田隆将氏の疑惑 その165

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
 六月二十五日に別府をたつて日向の延岡に出て、田舎宿屋に一夜を明かし、翌二十六日釣舟を傭(やと)つて延岡の港外に漕ぎ出した。午後になると空は曇り雨が降りだし、夕方には風も加はつて來た。吾等は島蔭の波の靜か處(ところ)を求めて釣舟をアチラ、コチラに移動させ乍(なが)ら臺灣(たいわん)船を待ち受けた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】23ページ
 昭和二十四年六月二十六日
 夕方近くになり、風雨が強まり始めた頃、小さな釣り船が延岡の港から一艘(いっそう)出ていった。夜釣りにはまだ時間があるものの、これ以上波が高くなると出港に支障を来たすと判断したのだろうか。
 延岡から漕ぎだした船は、延岡のひとつ隣の日向市・細島港の沖を目指した。
(略)
 風雨は、港を出た時からはさらに強くなっている。

■門田隆将氏の疑惑(166)〜(170)

◆門田隆将氏の疑惑 その166

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
 午後七時頃と思はれて來た。
(略)
 捷信號は臺灣籍で總噸數(そうトンすう)二十六噸、時速五浬(ノット)と稱(しょう)するかなり高齡の燒玉船で、羅針盤も海圖(ず)も持たない、簡單(かんたん)な携帯磁石一つが羅針である。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】24ページ
 午後七時を迎えた頃である。
(略)
 一行が待ちに待った船だった。重量二十六㌧。かなり老朽化しており、お世辞にも立派な船とは言い難かったが、貿易で台湾と日本の間を行ったり来たりしている台湾船だ。
「焼き玉船」とも称される
(略)
 船首の横には「捷信號(しょうしんごう)」という名前が書かれている。

「かなり高齢の」→「かなり老朽化しており」という書き換えが見られます。なお「焼き玉船」という単語は聞き慣れませんが、これはいわゆる「ポンポン船」というやつです。「焼き玉エンジン」は馬力がそれほど強くありません。沿岸部で1〜2名の漁師さんが漁をしたり、荷物を運ぶときに使われる船です。映画やドラマで見たことがある人も多いと思います(補足の豆知識でした)。

◆門田隆将氏の疑惑 その167

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
 吾等を臺灣に渡す捷信號であつた。吾等は釣舟を捷信號に漕ぎ寄せて雨と浪の飛沫にぬれながら一人づつ捷信號に乘り移つた
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】24〜25ページ
 これこそ、一行を台湾に運ぶ頼みの綱だった。
 釣り船を捷信號に寄せた一行は、雨と波、両方の飛沫を浴びながら一人ずつ捷信號に乗り移っていった。

◆門田隆将氏の疑惑 その168

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
 船は闇を突いて南進して居たが、風雨は益益(ますます)烈しく、浪は愈々(いよいよ)横浪を喰ふのか左舷の方から浪が「デッキ」を洗ふ度に扉の破れ目から潮がドッと寢てゐる者の上にかぶさつて來る。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】31ページ
 船は、風雨を突いて出航した。
 しかし、風と波は次第に激しくなっていく。うねりが捷信號を木の葉のように弄んだ。波が絶え間なくデッキを洗っていた。
 容赦のない横波が左舷から打ち寄せ、ついには、船室の扉の破れ目から潮がドッと入って来た。寝ている者の上に海水がかぶさって来るありさまだ。

◆門田隆将氏の疑惑 その169

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
 やがて浪も多少靜かになり船がとまつた
と思ふと、錨が下ろされた。一同も漸く元氣を恢復して煙草など吸つてゐる間に夜がほのぼのと明けかけた。眼の前に直ぐ山が見え、十二、三戸の部落の有る小さい入江である。船長に事情を尋ねてみたら、颱風(たいふう)の模樣が有るから一時此の入江に避難したとのことである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】32ページ
 やがて波が多少静かになり、船が停まった。
「停まった」
「停まったぞ!」
 どうやら沈没は免れたようだ。何人かが自分に言い聞かせるようにそんな言葉を発していた。
 全員がデッキに駆け上がった。
 暗闇の中だったが、目の前にすぐ山が迫って見えた。
 眼を凝らすと真っ暗な中に十二、三戸の集落が見えた。小さい入江だ。船長は、
「嵐を避けるために一時、入江に避難しました」
 という。

◆門田隆将氏の疑惑 その170

【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
 カンカンカン、カンカンカンと云う三つ番の警鐘に眼をさました。火事かと思つて室を出て陸上を見たが、それらしい火の手も見えない。陸上に何が起つたのかサツパリ判らない。「ライタア」を摺つて時計を見ると午前二時。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】32〜33ページ
 突然、カンカンカン、カンカンカンという鐘が鳴った。
 全員が飛び起きた。根本がライターをつけて時計を見ると、まだ午前二時である。
 根本は、火事か、とデッキに上がって陸上を見たが、それらしい火の手も見えない。陸上に何が起こったのかさっぱりわからなかった。

映画のワンシーンを連想させる「カンカンカン、カンカンカン」というけたたましい鐘の音色を回想録からすかさず採用しているあたり、さすが映画「Fukushima 50」の原作者です。

   *     *     *

ここまで、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』をめぐる疑惑を20ブロックご紹介しました。続きは連載第9回でお伝えしますね。

連載第9回へ続く/文中・一部敬称略)

※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com

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