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吸引力の変わらない、ただ一つの

朝目が覚めて、冷蔵庫に何にもない状況を経験したことがある幼少期だった。
何にもない、というのは正確に言えばそんなことはなくて、調味料や香辛料、出汁やみりんや料理酒といった物はあるものの、そのまま食べられる物という物はなくて、微妙に何かが残っている状況が"何もない"状況を引き立たせていた。

母は好き嫌いなくよく食べて、そのくせ痩せている。「それ美味しいの?」と尋ねると、決まって「美味しくない」と答えた。それなのに、食べることを辞めなかった。
朝食用に残されたパンにジャムを塗って食べているのはまだマシな方で、茹でた大豆にソースとマヨネーズをかけていたり、とにかく物は問わず、気休めなのかわからないが味を足して流し込んでいた。その様子は食事というよりも作業に近く、そこには感情は伴っていなさそうだった。

単身赴任の父親と、働きに出る母。母が帰宅するのを、家の中から車のエンジン音を聞き分けて確認する。聞き慣れた音を耳にして、車が車庫に入る前に外に出るのが当時の日課で、そこからコンビニやスーパーに乗せられて夕ご飯を調達するのがルーティンだった。コンビニの弁当も、スーパーの惣菜も、一通り食べ終わるにはそんなに時間はかからなくてすぐに飽きてしまった。仕方がないから、カップラーメンを左から右に食べ進める。カップラーメンは、一つ一つ味が違って美味しかった。

時々、人が作ったご飯が食べたくなった。人が、というか母親が作ったご飯が食べたかった。一度だけ、作ってもらったご飯が食べたいとコンビニに向かう車中で口にしたことがあったけれど、自分で作りなさいと諭された夜に電子レンジで卵を爆発させた。

食べることで腹ではない何かを満たそうとする母親と、食べることが面倒くさくなる私。美味しいがない食卓に、やかんの沸騰音が鳴り響く。肉じゃがの代わりに、ラ王の味噌に懐かしさを感じるようになった所以には、きっとこんな背景が関係している気がしている。

やっぱりご飯に興味は湧かないけれど、大人になって誰かとご飯を食べる選択肢を得てからは、美味しいを共感する幸せが生まれて初めて訪れた。
楽しみたい。食べることは作業ではないと。
味わいたい。些細なことで笑い声を響かせながら。

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