見出し画像

バズツイのリプに劣化jpgを貼り付けるゾンビ

先日、こういう記事を書きました。

なにかと他人の感想を読んでいると「自分の言葉」で感想が語れなくなる、という話。
この「感想」って物語のエンタメ感想文ならまだよくて(よくはないが)、ニュースや時事ネタの「感想」、小さな日常の「感想」(天気についてとか選んだ服や食べ物についてとか)までも、自分の言葉で語れなくなっていってしまうんでしょうね。

映画を見て、うわーーーって思ったけど言葉にする前に「しっくりくる」、いいかえると「自分もそう思っていたことにしたい」という基準値に合致する記事を探して見つけて「まさに自分の言いたいことを言語化してくれてた!」っていうやつならわたしもそこそこやってしまいます。

それはたしかにごく一部では一致してたのかもしれないけど、同じ星空を見上げて星座にした人へ「俺もあの形、いぬっぽいとおもってた!同じ!」って言うようなかんじ。確かに同じ点は見ていたし浮かび上がらせた図形も似ていたかもしれない、でもそこに生き物の姿を見た人とそうでない人は違うし、俺も見てた、と言い張る人は嘘をついているわけでもないというのがやっかいなところ……

飲食店もレビューがないと安心して「おいしい」と言えない、時事ニュースも「正しい」意見でないと口にできない、のっかれない。
ごく小さなできごとまでもが「他人の言葉」でないと語れなくなっていく。
早起きした朝の空気のことも、仕事で感じた感情も。
なんなら感情もアウトソーシングする、というのが、早送りで映画を見るということの正体なのかもしれないです。
一応「見た」というアリバイは確保して、等倍でないと得られない感情とその言語化は感想文で摂取する。

で、その行き着く先が本項のタイトル、「バズツイに劣化jpgを貼り付けるゾンビたち」なのかなって。

jpgって保存とコピーを繰り返すとどんどん劣化してがびがびになるんですが(それが起きないのがpng)、何度もコピーされてぼろぼろに劣化した、誰かがつくった漫画のコマをスタンプのように貼り付けてる、あれ。バズツイ見ると一人ふたりはいるやつ。

あれどういう精神状態なんだろって長いこと気になってたんですけど、たぶんそういう、「自分の言葉」を無くした、万バズになってるほど人をひきつけてるなにかがあるものにたいしてすら自分の言葉を持てなくなったゾンビがやるせいいっぱいの「言葉」なのかなって思ったんですよね。
自分は見た、おもしろいとおもった、という意思表示。

「言葉」を持つ側からすると「そんなことするくらいならなんもせず黙ってるかイイネかRTにしときゃいいのに」と思ってたんですが、たぶん、自分のタイムラインにリツイートしてもその感想をツイートしても誰にも読まれない、でも感情の投げ先は(まともに形にできない感情のくせに)ほしい、そして投げ先には「おもしろいやつ」と思われたい。だから「おもしろいと思った言葉(に似たもの)」をリプライにぶらさげる、そういうことなのかな。
漫画コラ自体は嫌いではないしそれを作った人もおもしろいけど、それを拾ってきて使ってる人はおもしろくはないんだよな……

「経験」とは、出来事を体感した、というだけでは「経験」ではないそうです。それは出来事を体感したというだけ。

出来事を自分の中で変換するプロセスを経て、受け止めることではじめて「経験」になるんだそうです。

千年に一度の天体ショーは、天文学に明るい人にもそうでない人にも訪れるけれど、そこから得られる経験はまるで違う。なんならうちにいる猫にだってやってくるけど猫はそこになんらかの「経験」を感じることはない……おそらくは。

バズツイに現れる劣化jpgゾンビに感じる不快感って「自分の言葉でしゃべってない」ってことであって、今話題のAI絵師にも似ているのかもしれません。借り物の表現で「自分はおもしろい」「自分はイラストレーター」という態度でいたがってること。
ツイッターでなんか「薄い」言動の人って、タイムライン見るとリツイート率の比率が明らかに多かったりもします。
でもこれに関してはおすすめタブのせいでシェアしたくなるバズが増えてるってのもあるかな……いやおすすめタブ以前からそういう傾向はあった。あと「やばい」人は時事ニュースのごく些細な個人の感想まで全部リツイートしてたりする。

ゾンビになるくらいならこうしてだらだらと想うことを書き出しているほうがまだ健全だと信じています。でもこれは包囲されたホームセンターで籠城しているようなものなんでしょうか。


サポートいただいたお金は本代になります! たのしい本いっぱいよむぞ