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孤独について考えているいくつかの断片のつぎあわせ

いつもそうですが、本稿はとくに自分自身の考えをまとめたくて書いてるものです。いつも以上の怪文書です、たぶん読むと疲れるし自分の再読のたびにちょっとずつ編集していくとおもいます。

どうして孤独について考えているのか

まあ、最近推し作家がちょっとよくない方向にいってるのがTwitterで見えてきてしまってるからなんですけど。
編集部なんとかしろと思うんですが、編集部と漫画家って「企業の発注者と外注の自営業者」だからどこまで踏み込むかって難しい問題なんでしょうね。

ちょっと話ずれます。けっこう「漫画家と担当編集」ってアイドルとマネとか選手とコーチとか、先生と生徒とか、なんなら親と子みたいな、そういう強めの関係性でイメージされがちじゃないですか? なおわたしはどっちもやったことないんで漫画家エッセイとかの印象だけで言ってます。

でもほんとのところ発注者と外注業者なんだから、フリーランスの顧客対応ノウハウとかが漫画家には役に立つのかもしれないなとか思ったりしています。この距離感をうまくもてるのが会社員あがりの漫画家ってことかもしれないな、とも。

で、よくない方向にいくのって「他者」を求めて依存してしまうからで、どうして他者依存が起きるのかって、「孤独」をちゃんと育ててきていないからじゃないかなって思ったんですよね。

一人でいるからつらいわけじゃない、退屈だからつらい

今年うっかり(うっかり?)入手したおもしろ本に「ゼリンスキーの法則」があります。サブタイは「働かないことのススメ」。本書は投資や不労所得云々ではなく「仕事人間をやめてレジャーに自分を見出せ」という啓蒙書で、40年ほど前に書かれたものです。

いくらか抜粋します。

他人を退屈させる方法
退屈人間の問題は、その生きる姿勢にある。ウェイクフォレスト大心理学助教授のマーク・ラリーとロチェスター大心理学教授のハリー・ライスは、どういう行動が他人を退屈させるかを研究し、退屈インデックスというものを作った。次にそのいくつかをあげる。程度の差はあれ、誰かを退屈させるには確かにこれは効果がありそうである。

・くだらぬ小話、スラングをやたらに使う。
・自分自身について嘆く。
・他人に好かれるように振る舞うことに懸命である。
・他人のことにまったく興味を示さない。
・目立ちたがっておかしなことをする。
・話が脱線する。
・話題が些細なことや表面的なことにつきる。

私たちは退屈にも、興味深い存在にもなりうる。その程度は人によってさまざまである。どれほど他人を退屈にさせているかという問題は、とりもなおさず自分自身がいかに退屈かということである

ゼリンスキーの法則 働かないことのススメ P121

入力してて胸が痛くなってきました…… ようはなんか浅瀬で必死だな(藁 ってことっぽいですね。
同著の別の章からも抜粋します。

ひとりでいるための鍵は、カギをかけること
(前略) ひとりでいる退屈を克服するには、やはり創造的に時間を過ごすことを学ばねばならない。たいていは自分自身の退屈さからの場れて、何か面白いことがないかと外に求めて逃げる。退屈も寂しさも社会がなんとかしてくれると期待する。人と一緒であれば寂しさから逃れられると思う。しかし、群衆の中にいるほど孤独感が深まることは誰もが経験していることである。 孤独と寂寥は同義語ではない。ひとりでいることは寂しさの原因ではない。ひとり住まいやひとり暮らしだけでは人は寂しい思いはしない。ひとりでどうしていいかわからないというから落ち着かないのである。大勢の人に囲まれているときにだけ、きわめてチャーミングで、自信があり、泰然としていられる人々がいる彼らはひとりになったとたんに寂しく落ち込んでしまう。不安でたまらないから、できるだけいつも大勢といたがる。

ゼリンスキーの法則 働かないことのススメ P208

本書は40年前の本です。スマホ、SNSはもちろん、パソコンだって普及してません。なのに書かれてるんですよ。本当の一人になること(退屈すること、自分自身が退屈なやつだと知ってしまうこと)が怖いから一人になれないのだと、そしてワーカホリックになってしまうのだと。他者に求められることから抜けられない。

そして現代では物理的には一人になることが容易でも(ここ三年は特に)、本当に自分の精神が一人きりになれるのって、寝てるときくらいなのでは?という気がしているんです。だってスマホがあるでしょう……
それこそ起きてるときもちょっとエレベーターに乗っているときも、誰かと何かとつながっているでしょう。

(なお本書は本当の一人になってレジャーを楽しむ方法なども書かれてます。(というかそれがメインの本) まあ現代日本人には実践は難しいのですがエッセンスはわかる。おすすめです、絶版ですが)

平野啓一郎は「分人」を提唱した、ならば孤独とは「自分自身と二人きり」ということなのではないか

平野啓一郎は「分人」という概念を提唱しています。これは「本当の自分」も「唯一の人格」なんてものもなくて、人間はつきあう相手のぶんだけいろんな人格をもっている、それが一つの体のなかにあって記憶や臓器を共有しているだけ、という考え方です。(臓器という表現はわたしの認識です)

会社の自分、配偶者と二人きりの自分、親といる時の自分、趣味の場所の自分、そういう自分が全部同じトーン同じ価値観おなじ温度感で他者とやりとりしてるかって、そんなことないですよね。

じゃあ、誰ともいないときの自分は「本当の自分」なのかっていうとたぶんそうじゃなくて、誰ともいないときの自分はそれはそれで「自分自身と二人きり」という分人なんじゃないかって気がするんです。
孤独とか、なんかそういう虚空より、「最小単位の二人きり」のほうが私には腑に落ちやすい。
そして「自分自身」がすんげえ退屈なやつ、前段の「退屈インデックス」フルコンプリート状態なやつだったとしたら、どうでしょう。

・くだらぬ小話、スラングをやたらに使う。
・自分自身について嘆く。
・他人に好かれるように振る舞うことに懸命である。
・他人のことにまったく興味を示さない。
・目立ちたがっておかしなことをする。
・話が脱線する。
・話題が些細なことや表面的なことにつきる。

ゼリンスキーの法則 働かないことのススメ P121

想像してほしい、すぐ隣のテーブルはすごく盛り上がってるのに、こういう(↑)やつとふたりきりで同じテーブルに取り残されてるの。
我慢ならない。

いますぐこんなテーブルから立ち去ってやる、トイレ行くねというふりすらせずにスッと立ち上がって一番盛り上がってるテーブルに近づきたい、会話に入れなくてもいい楽しそうな人たちの話聞いてるだけでもいい、とにかくこいつと二人っきりではいたくない。

たぶん、孤独を回避する、すぐにスマホを開く、そういうときの心の気持ち、これにすごく近いのではっていう気がしてるんですよね。

自分自身と二人っきりにならないまま成人になれるし中年にもなれるし老人にすらなるインターネット時代

で、ゼリンスキーは「退屈な人格を興味深い人格に育てるには孤独な時間を持つべき、その方法として観察をすべき」みたいなことを繰り返し繰り返し述べています。

孤独な時間。

わたしは友人が多い方ではないし家族とのやりとりもほとんどないから物理的には孤独な時間が長いです。
でも、精神的にはどうなんだろうか? と考えてしまうんです。
成人前後でインターネットをはじめて、他人の体験談やブログや掲示板やウェブサイトやSNSに始終触れてきた、それって「本当の孤独」の時間ではなかったのでは。
自分自身と二人っきりになった時間、人生の期間に対して、すごく、短いのでは。

デラへ身を委ねよ、孤独を得るために

これに気づいて、すごく怖くなりました。
まだ人生の折り返し地点にも達してないのにこのまま生存していくのはおそらくやばい。
ちゃんと「孤独」を育成しなきゃ、自分自身の人格を育てなきゃ。

そう思ってから、真っ先にスマホを使わず音楽をかける環境を用意しました。耳はなにかしらの音が流れてないとむしろ気が散ってしまうんです、音楽は自分がかけているものだけど外界の音は自分がかけているものではないのでノイズになる。

でもっていろいろ試して、やっぱりいろんなところで言われてるように「歌詞のある曲」はよほどオートモードで体を動かしたいとき以外はだめだと悟りました。(掃除する時によほど馴染んでソラで歌えるフルアルバムかけるときくらい、例外は)

インストゥメンタルは「自分自身のBGM」になるんですが、日本語歌詞のある歌は「歌を聴いている自分」になるんです、インストは主が自分になるけれど歌は自分が従になってしまう。そして歌は孤独の必須要素、「観察」ができなくなってしまう。言語が割り込んでくるから。動作をしながらも言語を解析してしまうから、動作の観察ができなくなってしまう。

気が向かないことをするときほど歌を聴いたほうがいいような気がしていましたが、逆です、逆。気が向かないことをするときほど脳内で観察して分析して言語化をフルに使わないといけない、歌詞の意味を認識することで言語スロット埋めていられない。

というわけで以前noteにも書きましたが株式会社デラの音楽がとにかくおすすめです。

たぶん東急ハンズのヒーリンググッズコーナーとかで絶対に見たことあると思います、配信も多い。
あとヨガ教室とかマッサージ屋とかでよくかかってるタイプのやつ。
私はブックオフなどでアルバムを見かけたら購入したり、サイト見ながらyoutubemusic使ってプレイリスト10個くらい作って回してます。
デラを信じよ。

バーチャルおばあちゃんは言った、「他人なんか必要ない、人生に一番大事なのはイマジナリーフレンド」

たぶんわたしの再生時間一番おおいVtuberってバーチャルおばあちゃんなんですけど。バーチャルおばあちゃん(愛称VB)については話すと長くなるし本稿の目的はVBの布教でもないのでそこはさらっと流すと、この人は「自分自身と二人きり」どころか「自分自身が5、6人」いるイマジナリーフレンドガチ勢です。
「人生に一番必要なのはイマジナリーフレンド」とまで断言するVB、配信を見てもとにかく他者の評価が本気で気になってないのを感じる。強い。
でもって、自分の内側が深い人ほど他者を惹きつけるんだなあと、つくづく……ええ、つくづく。
配信者でいうと壱百満天原サロメさんも深いし強いし凄みを感じる。

他者に何かを求めてしまうのは、危うい。自分自身の内側を掘って自分と対話する、その「自分」に人格を与えるのがイマジナリーフレンドです。
憧れる、この究極系。

わたしはどうもうまくイマジナリーフレンドをつくれないしぬいぐるみともあそべないタイプなんで「分析」「観察」の方向で深めていきたいと思っています。そっちは得意だし、誰かといるときも分析や見解を話してるときが一番楽しい気がする……つまりたぶん、だから、自分といるときも、きっとそう。

とにかく何が言いたいかっていうと、何をしていきたいかっていうと、「ちゃんと自分の時間を作って自分を育てていく」ってことです。いまさらだけど、まあ、人生に遅すぎるってことは、あんまりないから……



~ふろく~アニメ化で休載になりがちな漫画家が多い理由を妄想する

ここからは蛇足で本当に本気のただのメモ。
くだんの漫画家、思春期(もしかするとそれ以前)からインターネットにずぶずぶだった気配があるので、おそらくやはり「孤独」レベルが低いんじゃないかな……

で、学生からシームレスに作家になって10年ちかくやってきて、アニメ化。
ほぼ引きこもって漫画描いてきた人が、アニメ化でいろんな「大人」とやりとりすることになるわけですよ。

アニメ化した漫画家が休載しがちになるのって、単純な作業量そのものだけでなく、たくさんの「社会人(ちゃんとしたおとな)」に接することが要因のひとつなんじゃないかって気がしてるんですが、どうなんでしょうね。

それで増長するタイプと劣等感に折れるタイプの真っ二つになる気がしてるし、そうならないのってちゃんと「社会人」経験のある漫画家だけなのではっていうような気もしてる。

それで劣等感に振れて自己承認の魔物になるのも、自分のなかでなく寄りかかる先を探すのも、「自分自身が退屈なやつ」「孤独を育てていない」ことが原因、なのかなあ、と。

まあ妄想ですけど私はなんか答えを見つけたような気分になれたのでよしとします。願わくば先生がちゃんと立ち直りますように。


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