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【試し読み】『モノノ怪 執』第一話まるごと特別公開!

2024年7月26日(金)より大ヒット公開中の『劇場版モノノ怪 唐傘』。
全三章のプロジェクトであること、そして『劇場版モノノ怪 第二章 火鼠』が2025年3月14日(金)に公開予定であることが明かされ、さらなる話題を呼んでいます。

反響が広がる中、角川文庫の関連書籍3作品も続々重版出来!
感謝の気持ちを込めて、3日連続で各作品の冒頭試し読み記事を特別公開します。

本日お届けするのは、アニメ『モノノ怪』のスピンオフ小説第1弾『モノノ怪 執』。
収録作の中から、第一話「鎌鼬かまいたち」をまるごとお届けします!
小説版ならではの『モノノ怪』の世界を、どうぞお楽しみください。

あらすじ

猪苗代湖畔の天守に夜になると現れる姫、深川の長屋住まいのつくり花師を取り込んだ妖狐、古戦場に現れる獰猛な妖怪、本郷前田藩の屋敷近くに出る顔をはぐ怪物など、モノノ怪あるところに現れる妖しき薬売り。「形」「真」「理」の3つが揃うとき、薬売りの持つ“退魔の剣”の封印が解かれ、モノノ怪を斬る! 斬新な世界観で多くのファンを魅了した和製ホラーアニメ『モノノ怪』に登場する謎多き薬売りのスピンオフ小説、全6話。


『モノノ怪 執』試し読み


第一話 鎌鼬


かまいたち
これを使う人ありて、竹筒を持ちながら呪文を唱うれば、狐たちまちその管の中に入り、問いに応じて答えをなす。(井上円了『迷信解』)

    ※

 としごとに栄えゆく世を寿ことほぎて、
 今朝あらたまの春を迎えん
 誠にう候……

 壁が崩れ、屋根のあちこちから冬の冷気が流れ込んでくるぼろ小屋に、鼓と謡の音が響いている。にはふちの欠けたなべがかけられ、せめてもの暖をもたらしている。
 かわまんざいの門付け芸人、とく右衛もんの向かいでは父のちゆう右衛もんが低い声で新年の祝いを唱えている。それに合わせて徳右衛門は鼓を打つ。謡と舞に合わせるはずが、わずかに音が揺れた。そのせつ、父は立ち上がると徳右衛門の頰を殴りつけた。
「何度言えばわかる」
 父の汗とあかの臭いに、己の血の臭気が混じる。
「そんな芸で銭が取れるか!」
 音が揺れた理由はわかっている。
「腹が減って……」
 最後まで言い終わらぬうちに逆の頰を殴られた。
「お前の腹など施主は気にせんわ。俺も腹が減った。飯を作れ」
「作れと言われても、米ももうないよ」
「ないなら買ってこい」
「だから銭も……」
 すると忠右衛門はしやくで鍋の熱湯をむと、ためらうことなく息子の顔にたたきつけた。徳右衛門は悲鳴を上げて逃げまどう。
「米がなければ買ってこい。金がなければ稼いでこい。そのあてもないなら盗んでこんか。何度同じことを言わせやがる」
 小屋中に湯気が立ち、もうろうとした景色の向こうに醜い初老の男の顔が見える。黄色い歯がき出しにされ、その間から絶え間ないとうが降り注いでくる。物心ついた頃から、数えきれないほど繰り返されてきた光景だ。
 何も思わない。ただ何も考えられなくなって心がうつろなものへと変わっていく。痛みも恐怖も全て消えさり、あきらめの中で許しを請う。そうすれば父の気もすんで、後は逆らわないように気を付けていればよかった。
 なのにこの日は違う。ちようちやくは強く、𠮟しつせきは終わらない。虚ろな心の中に痛みが鳴り響き続ける。やがてそれは黒い奔流となって空っぽになったはずのこんぱくの中に渦巻き始め、一気に口から噴出していく。
「これは……」
 目の前で父が何かを振り上げている。熱湯を汲んでいた柄杓ではなく、細長い銀の棒だった。先端は研ぎ上げたようにとがり、そんなものを刺されたら急所でなくても死んでしまう。徳右衛門の怒りと恐怖の奔流がそれを飲み込んだ。
 次に彼が気付いた時には父の姿はなくなり、ただどす黒い血だまりが小屋の中に広がっているばかりであった。

 鼓の音と共に烏帽子えぼしながばかま姿の若者が歌い舞う。とうしようだいごんげん天下ご一統のみぎり、諸国検分、調略の功をもつて関東十七州、やがては天下往来御免の許しを得た。鼓一つを音曲の源とし、種々の道具と見立て、天下万物を寿ことほいでみせる。それが三河万歳をもっぱらとする芸人だ。
「……ご当家さまには代々栄えてあら楽し」
 万歳楽を終えて徳右衛門が深々と頭を下げると、そこには祝儀袋が置かれている。その重さを確かめ、ほくそ笑みそうな表情を慌てて引き締める。次の出番を待つくまじんにんいらった表情で場所を空けろとにらみつけていた。
 普段、芸を売り込みに来る「推参」な芸人たちは忌まれる。どの村に居つくこともできず、旅路に宿を願っても母屋で休めることはない。だが、新年だけは別だ。富ある者は競って門付けを招き入れ、新しい年のわざわいはらい、福を招こうとする。
「芸のご披露が終わった方はこちらへ」
 しようの番頭が丁重に出迎えてくれる。これは望外のもてなしである。芸人を母屋へ上げて酒飯をふるまう。それは家に特別な慶弔があったことを意味する。村に縛り付けられた人々にとって、旅を続ける芸人は禍を運ぶだけではない。とりついた禍を運び去り、また福を運び込んでくれる存在でもある。
「……ごん種子たねまき、からすがほじくる。かならずこれを見習って、人のカサなどほじくるな、それさえなければ国家安泰、家内安全……」
 熊野神人のげんかいがあほだら経を唱え終わり、新春のまだ寒い時季だというのに真っ赤な顔に汗を浮かべて徳右衛門の方にやって来た。神人とはや熊野、はくさんといった大社の神符を授かり、各国の信者のもとを巡る。その際にとうや芸を披露していくばくかの銭を得る稼業だ。
かんだん、気前がいいだろ?」
くだぎつねの加護を得た家、ということですよね」
 父の遺品をあらためている際に、年始に一人向かう奥三河の村を知った。信濃しなのとのくにざかいに近いその村の庄屋は門付けを歓待してくれる郡で一番の富農であり、その富の源はづなかまいたちとも呼ばれる「管狐」だという。父が何故そのようなことを知っているのかまではわからなかったが、書きつけに新年必ず訪れるべきところとあるのを見て、徳右衛門は足を運んだのだ。
「若いの、ここは初めてかい」
「父に聞いてきました」
「先代の忠右衛門さんは亡くなったのかね」
「ええ、昨年中に」
「そら気の毒に」
 神人はだみ声で経を一節唱えた。
「お布施はつけとくよ」
「頼んでません」
「門付けが頼まれて芸をするかね」
 推参して代をせしめるのが芸人だ、と坊主は肉に埋もれそうな目をさらに細めた。
「わしは玄海だ。門付け同士仲良くしようぜ」
 これは油断ならぬ、徳右衛門は警戒した。村の人々が門付けに母屋を貸さぬのは、彼らが抜け目なくよからぬことをするからだ。父も自分もそうだ。近くにいる誰かが隙を見せれば、それなりの果実をいただく。
 盗み、犯し、何食わぬ顔で次の村へと旅を続ける。徳右衛門は母の顔を知らない。旅の途中で拾ったと父には聞かされていたが、どこかの村で犯して産ませたか盗んだのだろう、とは思っている。
「早くうたげを楽しみたいものだのう」
 傀儡くぐつが門前で芸を披露している間、玄海は路傍の岩の上にひじをついてつまらなそうに眺めている。
「三河万歳か。親父さんの芸は大したものだったよ」
 三河や尾張おわりでさかんな万歳は、もとは農耕を害する獣や虫、病を祓うじゆげんからはじまり、はたを荒らす精霊としての鹿やかにを従わせるための呪であった。その呪と舞がこつけいな謡と身ぶりに変わっていったものだ。
 門前では幼い子供に曲芸をさせるかくが続いている。
「お主は三河、わしはしゆう、傀儡はぜんまいえちと天下の芸が一堂に会したというべきではないか。それに薬売りまでいる。あいつはえつちゆうかな」
 神人はのんにそんなことを言うが、正月だというのに村はしんと静まり返り、庄屋の門前に麗々しく飾られた一丈ほどもありそうな門松がかえって空々しい。
「はやり病があったそうだ」
 徳右衛門は路傍に生えていたオオバコを一葉ちぎると口に含んだ。
「だから薬売り風情が新年からほっつき歩いているんだな」
 薬売りは若い男に見えた。顔にくまどりのような化粧を施し、雲が渦巻くような華やかでかぶいた衣を身にまとっている。
「あいつの薬、もうけの種になる」
「見たんですか」
「ああ。遠江とおとうみの境から道が同じで横目で見てるが、行く先々で病人を助けてる。あのたいそうなこうに入ってる薬、ちょっとしたもんだぞ」
 新春だというのに妙に暖かい。徳右衛門は額の汗をぬぐった。熊野神人はねっとりとした視線を薬売りの行李に向けている。
「これより新年の宴を行います。皆様は客間の方へどうぞ」
 若主人が旅芸人たちを屋敷へといざなった。

 この屋敷には父に連れてこられることはなかった。新年の門付けは一年の中でもかき入れ時である。なのにここ数年は正月だけは里にいるように命じられていた。新年の上客なら自分にも紹介して欲しいと頼んだこともあったが、殴られて終わりだった。
 熊野神人は真っ先にを脱ぎ散らすと、母屋へと上がっていった。徳右衛門は道具を片付けていた角兵衛獅子の子と一緒になった。獅子芸をしていた子供は三河万歳の正装を見たことがないのか、徳右衛門を珍しそうに見上げている。
「坊主はここに来るのが初めてかい」
 徳右衛門が尋ねると、少年は首を振った。
「兄ちゃん、ここに来ると銭をたくさんもらえるんだ」
「親父さんは駄賃をくれるのか」
「俺にはくれねえけどさ」
 少年は腹立たしそうに言うと、にっと笑った。父親がいると全く言葉を出さなかったのに、その姿が母屋に消えると急にじようぜつになった。
「俺はってんだ」
 獅子の子はそう名乗った。越後は米どころだが、旅芸人には耕すべき土地もない。村の子と遊ぶことも許されず、夜明けから日が暮れるまでひたすら芸のけいをする。
 うまくいけば何も言われないが、しくじれば殴られる。殴られるのは嫌だから必死に芸をやってみせるがうまくやったところで何か褒美をもらえるわけでもない。
「やってらんねえ」
 与兵衛は吐き捨てる。
「俺も子供の頃から親父に連れられてあっちこっちで滑稽話をやってきた。楽しいと思ったことなんか一度もなかったな」
 徳右衛門の言葉を聞くと、少年はもう一度にっと笑った。
「旅芸人ってみんなそうなのかな」
「わからないな。他の芸人と話すこともあまりない」
「おいらもだよ」
 徳右衛門にも三人の弟がいた。一人は赤子のうちに死に、残りの二人はどこかへ売られていった。もし近くにいたら角兵衛獅子の子と変わらぬくらいだ。父にのように扱われ、厳しい旅路の中で流浪の日々を送るくらいならば、雨風しのげる納屋で暮らした方がましだと考えたこともある。
「ただ、このごろは違う」
 徳右衛門が言うと少年は意外そうな表情を浮かべた。
「楽しいことなんかあるの」
「親父が死ねば楽しくなる」
 少年はけたけたと笑ったが、門から父の姿が出てくるのを見てぴたりと笑うのをやめ、その表情は芸をしている時の、能面のように暗く冷たいものに戻っていた。薬売りが二人のやり取りを見ていたのに気付いた。
 屋敷は広く、床は顔が映りそうなほどに磨き上げられている。新春の三河としんしゆうの境には冬の気配が色濃く残っているが、冷気の中でさく椿があでやかな紅を放っていた。
「こちらへ」
 番頭らしき年老いた男が広間の障子を開けて客を招き入れている。すでに宴の用意は調えられており、ぜんにはあわびや昆布などの縁起物に加えて、さかだるも見える。
「これはこれは」
 熊野神人の男が相好を崩す。
「年年歳歳見上げたお心がけ。けがわざわいはらわれて福徳に満たされるでありましょう」
 番頭が出ていくと早速門付けたちは膳に手を付けた。
 かりもりというしろうりのみそ漬け、蜂の子と炊きこんだへぼ飯、焼いたハゼを海藻で巻いたアラメ巻きなど、このあたり独特の珍味がうれしい。「おおごちそう」という大根やら里芋、豆腐をおおなべで煮込んだものも好きなだけ食わせてもらえる。
「おい万歳」
 酔った与兵衛の父が絡んできた。
「お前の親父はどうした。くたばったか」
「ええ、昨年の冬に世を去りました」
「世を去りました、じゃねえ。くたばったんだ。芸人が偉そうに世を去るなんてありえないな。ただくたばるんだ」
 男は据わった目で言うと、徳右衛門の肩口に鼻を近づけた。
「お前さん、血の臭いがするな」
「何なんです」
 徳右衛門はすっと距離を取った。
「殺したんだろ? いや、責める気なんて毛頭ないぜ。でもあの野郎、病で死ぬようなタマじゃない」
「旅路では何が起こるかわからないでしょう」
「……ああ、確かにそうだな。なんだって起こる」
 与兵衛の父は舌打ちをして徳右衛門の向かいに座った。その隣では薬売りが黙ってはしを運んでいる。旧知の仲らしい熊野神人と傀儡師が声高に話したりののしり合ったりしている間も、薬売りが誰かと言葉を交わしている様子はなかった。
 薬売りは端然と座し、身の傍らに短刀を置いていた。刀のたぐいは確か玄関先で預けることになっていたが、この男はそうではないらしい。旅芸人はもちろん帯刀を許されるような身分ではないが、護身や日常で用いる短刀くらいは持ち歩いている。
 それにしても、奇妙な短剣だった。反りのないさやには五色のたまがちりばめられ、つかがしらには獅子か鬼の飾りがついている。その目がこちらをぎろりとにらんだ気がして、徳右衛門は思わず目をらせた。
「おい、いい道具持ってんな」
 与兵衛の父は無遠慮に言って短剣に触れようとした。薬売りはちらりとも男を見ない。
「何だよ。減るもんじゃなし」
 だが手を伸ばそうとした男の手はむなしく畳をでた。そこにあったはずの短剣がない。薬売りは静かに座したままで短剣をしまった気配もない。
「妙な術を使いやがる」
 与兵衛の父は再度舌打ちした。

「そりゃお前が悪い」
 熊野神人がたしなめた。
「人の商売道具に手を出すのはご法度だ」
「薬売りに派手な刃物が必要かね。それにわしらの稼業にご法度も何もないもんだ」
 かくが不愉快そうに言い返すと、かわやに行ってくると部屋を出て行こうとした。だが、障子が開いてもそこには廊下があってさらに障子がある。
「はてめんような」
 その障子を何度開いても庭には出られない。振り返った与兵衛の父は、門付けたちがいぶかしそうに見ているのに気付いた。
「お前ら、これが見えないのか」
「庭を前に何をばたばたしているのだ。深酒でおかしくなったか」
 熊野神人がからかうように言った。
「ならば庭の椿を一輪持って来てみろよ」
「ただで芸人を使うのか?」
「持って来られたら今日いただいた銭の半ばをやろう」
 銭の話になれば目の色が変わるのが門付けというものだ。熊野神人は勇んで廊下に出る。だが障子に手をかけて廊下に出た後は同じ場所をぐるぐる回るばかりで目の前の庭に降り立つことすらもできない。
「なんだあ?」
 熊野神人は腹立たし気に障子をりつける。その足は障子に当たる寸前のところで何かに滑り、神人はもんどりうって倒れた。この部屋は何かがおかしい。気づいた時には徳右衛門は走り出していた。
 その鼻先を冷風がかすめて慌てて足を止める。鼻に触れた指を見るとべったりと血がついていた。
 街道に生きる者にとって、危機を察するのは銭の匂いをぎつけるのと同じくらい大切な技量だ。賊が出そうなところ、獣が待ち受けているところ、役人の手入れ、かたきと狙っている者の殺意……。
 害をそうとする者の体臭や敵意を嗅ぎ取り、聴き取る力がなければ路傍の露となって消える。往来自由の芸人稼業がその芸よりも先に身につけるべき技であった。
 これはまずいぞ。
 まずいとなれば何とか生き残る道を探らねばならぬ。己一人が助かるのなら、誰を犠牲にしてもよい。さらに言うなら、己の腕や足一本犠牲にしてもよい。
 それほどに芸人たちの逃げ足は速く、命を全うしようとするその本能は研ぎ澄まされているはずであった。もちろん、豪華な宴や高額な報酬で上機嫌になっていたとしても、常にわなではないのかという疑念を忘れたことはない。
 他の面々もそうしてきたからこそ、ここまで生き延びてきたはずだ。その門付けたちが皆驚きに言葉を失っていた。
「皆の衆」
 そう口を開いたのは熊野神人だった。
「我らは天下をさまよい歩き、この世ならぬものを目にし、感じたこともあろう。天下には奇妙なことが起こり得ることを知っている。その力を目当てにここに来たのだろう?」
 その間にも与兵衛の父が広間の四方の出入り口を確かめている。先ほどまでのろうばいは消え去って、この窮地を脱しようとする街道の者のしたたかさが表れていた。
 だが、その鋭い感覚をもってしてもこの罠を見抜けなかった。開かぬ障子、越えられぬ廊下の向こうには新春のうららかな日差しが降り注いでいる。門付けたちは互いに顔を見合わせ黙り込んだ。
「お前さん、怪しいな」
 傀儡師が一人動ずることのない薬売りの顔をのぞき込んだ。
「ここにいる中でお前さんだけは見たことないんだよな。どこから来た。この屋敷のことをどうして知っている」
 薬売りは黙って端座している。
「モノノの気配あるところ我あり」
「モノノ怪?」
「なんだよそれ。あやかしとかそういうものか」
「似て非なるものなり。妖とはこの世の道理とは別の世にあり。モノは荒ぶる神、怪は人にたたりをなす。事の有様、心の有様が契機となってそれらが妖と結びつきし時、モノノ怪となる」
「そんなのがここにいるのかよ」
 傀儡師が気味悪そうに広間を見回す。だが、新春のうららかな日差しが射しこんでくるばかりで、怪異の気配は感じられない。
「俺たちを閉じ込めているのはそのモノノ怪とかいうやつなのか。もしそうならどうやったらここを抜け出せるんだ。おい、お前は何か知ってるんだろ? だからそんな平気な顔でいられるんだ」
 薬売りは傀儡師を見ないまま、
「入口があれば出口がある」
 ぽつりとそう言った。
「だから、その出口はどこなんだよ」
 すごむ神人の耳元にそっとくちびるを寄せると、薬売りは何事かをささやいた。神人は顔をしかめて身を離し、
まことことわりだって? 意味がわからねえ」
 と己の異装を棚に上げて吐き捨てた。

 徳右衛門はそっと薬売りを盗み見た。この屋敷に入る時から、その気配も表情も一切変わらない。これから何が起こるかをこの男は知っている。どうしてこうなっているかも理解している。
 己の身を助けたいなら、道を知る者の後につけばよい。もっとも、その道が確かなものであれば助かるが、噓やはったりをしたり顔で隠すような者についていけば死ぬ。
(この男にけてみるか。いや……)
 まだわからぬことが多すぎる。門付けをここに集めて閉じ込めた。誰もが派手な衣装に身を包んではいるが、その懐は寂しいものだ。みすぼらしいのは好まれないから、表は美しく取り繕うが、裏地はつぎはぎだらけだ。
 しかしこの薬売り……。
 徳右衛門はその衣のそでぐちを見つめていた。りよじんの気配が一切ない。どれほどの旅路をたどった後なのかはわからないが、新しく仕立てたばかりのようにすら見える。その時、目の前に袖口がぐっと突き出された。
「み、見ていたわけではない」
「見よ」
「何を?」
「その形、その真、その理」
 袖口に描かれた紋様が渦を巻き、巨大な眼のようになって徳右衛門をにらみつけた。ひっ、と悲鳴を上げてしりもちをつく徳右衛門を見て、熊野神人があざ笑う。
「怖いかね。お前が死んだら衣はもらってやるよ」
 こういう時でも強欲を忘れない。だがそれを聞いて徳右衛門はかえって落ち着きを取り戻した。
「じゃああんたが死んだら首にかけた大数珠じゆずをもらってやるよ。汚い木の玉に見えるが、そのうちのいくつかは金なんだろ」
 坊主は一瞬表情をこわばらせたが、
「悪運は強い方だからよ。お前の親父さんのようなヘマはしないぜ」
 その時、廊下に人の気配がした。何事かと門付けたちが身構えていると、番頭とは違うかつぷくのよい男が現れた。黒い狐のような面をつけ、障子の向こうに立っている。門付けたちはその男に文句をつけるかと思いきや、さっとひれした。
「施主さまには新年明けましておめでとうございまする」
 屋敷のあるじであることに気付いて、徳右衛門も慌てて畳に手をつく。
「今年も手厚いおもてなし、まことにかたじけなきことながら我らあやしき術にかかりし様子。なにとぞ施主さまのお慈悲をもってお助け下さりますよう、伏してお願い奉りまする」
 芝居がかってはいるがその声には張り詰めたものがあった。施主、と呼ばれた屋敷の主は仮面の下よりゆっくりと声を発しはじめた。
「我らは管家である。家宝の管が先年の正月、何者かに盗まれた」
 主人の言葉に門付けたちは顔を見合わせる。
「管家はそのうちに住まう神獣、飯綱と共に栄える。我が家が栄えれば村も栄え、我らが健やかであれば村人も傷や病の災いに苦しめられずにすむ」
 しかし、と主は語気を強めた。
「先の正月、芸を披露した者のうちから家宝を盗む不届き者が出たようだ」
 徳右衛門は昨年の正月にはここに来ていない。だが他の者たちは互いの様子をうかがうようにちらちらと視線を向け合っている。
「家宝って何ですか」
 徳右衛門は隣で畳に頭をすりつけているかくの親父に声をひそめてたずねた。薬売りに見られているような気配があって落ち着かないが、家宝の正体がやはり気になる。
「管家の宝なんだからかまいたちにまつわるもんだろ」
 鎌鼬という妖なら徳右衛門も聞いたことがある。烈風と共に来て身を切り裂く力がある。山を歩くと時に気付かぬうちに傷を負うことがある。その大半は草木や虫が持つ鋭いとげや針によるものだが、説明がつかぬ深く大きな傷がつく。
 それを山や街道をゆく者たちは「いづな」や「かまいたち」と呼んだ。薬売りのくちもとにわずかな笑みが浮かんだように見えたが、すぐに消えた。

「ともかく」
 熊野神人がしかめっつらを作って一同を振り向く。
「この中に下手人がいて、それを探し出さない限りはこの屋敷を出ることはできない、というわけですな」
「お前が下手人かもしれんけどな」
 傀儡師が野次を飛ばすと、
「適当なことを言うとただではおかんぞ。熊野権現のお力をもってこれまでの悪行の数々を明らかにしてやってもよいのだ」
 目をいて言い返した。
「そりゃあこっちのセリフだ」
 二人がにらみ合ったところで、屋敷の主が制するようにさっと手を挙げた。袖がまくれて筋ばった腕があらわになる。その腕は無数の傷で覆われていた。
「飯綱の管を盗んだ者を責めるつもりはない」
 主はそう言った。
「山の精霊、妖、どう呼ぶべきかはわからぬが、その力は我らのためだけに使うものではない。飯綱の力を共に使うにふさわしい者であれば、その栄えを共にしたい」
 甘言でぬすびとに罪を吐かせようとしているのか、と徳右衛門は警戒する。それは他の門付けたちも同じようであった。
「では施主さま、その栄えを共にするにはいかにすればよろしいですか。施主さまの宝を盗んだ下手人を突き止め、罪を吐かせましょうか」
 神人の言葉に主は首を振った。
「かつて我が祖がこの地に至り、このように栄華を手にすることができたのはその技芸あってのこと。人々の尊崇を受け、飯綱の友となるに足る技芸の持ち主のみがこの座敷を出ることができよう」
「芸で勝ち負けを決めるというのか……」
 そういうことならば、と門付けたちは部屋の四隅に散って睨み合う。
「待たれよ」
 広間の中央にいつしか立っていた薬売りが声をかける。
「順を決めて芸を披露されたし。見るものがあっての技芸だ」
「ただ芸を勝手にやっても仕方がない、か……確かにそうだ。だが、芸の優劣をつけるのであれば客が必要ではないか。わしの技がいかに優れていたとしても、こやつらがそれを認めるとは思えんな」
 熊野神人は他の門付けたちを疑わし気な目つきで見回す。
「我が祖が管狐の力を得た際にも、飯綱自身が我らの技を認め、その力を貸し与えた。この広間は飯綱の住まうところ。その技を認められれば恵みを与えられるであろう」
 そう言うと主の姿は廊下の向こうへと消えていく。
「けっ、自分は高みの見物かよ」
 神人は吐き捨てる。
「そういう憎まれ口も筒抜けってことじゃないのか」
「誰のこととは言ってねえ」
 傀儡師が意地悪く言うと神人は顔をしかめて言い返した。二人が再び睨み合う形となり、まずは二人が術を披露することとなった。
 先手を取ったのは人形遣いだった。二尺ほどの人形は人形遣いの手使いに合わせて舞い始める。薬売りが興味深げに目を細めている。
「わが傀儡はおそれ多くも内裏内侍所御神楽かぐらの系譜を継ぐもの。はちまんの神威をもつて施主さまのわざわいはらい、福を招く。ここに芸を競えというのであれば、わが術の秘奥をここにお見せしよう」
 傀儡師が低くうなるように謡を始める。それは八幡の祝詞のりとに似て、真言のじゆのようにも聞こえた。傀儡を操る糸がやがて見えなくなり、人形のひとり芝居へと変わっていく。
 ある男が人目を気にしながら何かを盗もうとしている。稚児人形はやがてひげ面の坊主頭に変わった。
 熊野神人は顔色を変えた。それは彼自身にうりふたつだった。傀儡が変化した神人は屋敷の中を探し回り、土蔵の裏側へと回り込む。そこには小さなほこらがあり、その中に手を突っ込んだ熊野神人は祠からそっと何かを取り出した。それは黒く細い、筆ほどの管であった。
「大した芸だ。やはりあいつが下手人かね」
「おとう、あれは人形だよ」
「……わかってるよ。うるせえな」
 角兵衛獅子の父がにらみつけると、子はおびえたように首を縮めた。徳右衛門は懐の短刀のさやをちらりと見せるとその表情から怯えは消え、小さな笑みが浮かんだ。
 熊野神人の姿にふんし、祠から管を盗み出した人形はそのまま素知らぬ顔で屋敷の前で芸を披露しにかかるが、そこに小さなからすがまとわりつき始めた。
 烏のくちばしと爪は熊野神人に扮した人形をつついている。やがて人形の変装はがれ落ち、傀儡の姿に戻ったところで傀儡師が人形を守るように覆いかぶさった。
「わ、わしの商売道具に何しやがる」
 烏に突かれて傀儡師の頭から血が流れた。
「文句を言うなら、いい加減な人形芝居でわしに罪を着せようとしたことをまず悔いることだな。わしは熊野三山の加護を諸国にもたらす者。熊野の御神の前に武人は誓いを立てた」
 その理由がわかるか、と得意げにひげをうごめかせた。
「熊野の神々は決して噓を許さぬ。その神に仕えるわしを偽るとは」
 烏は熊野の神符となって神人の手元に戻る。徳右衛門はそれを見て内心驚いていた。熊野の拝み屋は不思議な霊験をうたってはいるが、その実は舌先三寸の適当なものだと思っていた。
「それ、偽りを申した償いをせよ」
 神符を宙に投げ上げるとそれは一体となって大烏へと変化し、傀儡師を追いまわす。
「こんな恐ろしい場所でお前らと心中するつもりはねえ。わしの負けでよいわ!」
 傀儡師は人形を抱きしめ敗北を認めた。
「いずれ劣らぬ芸の優劣を決めるは清き芸道への志か、はたまた煮え立つ欲の濁流か……」

「ほう、ひっくり返しおった」
 腕枕で見物していた与兵衛の父は体を起こす。大烏はとどめを刺そうとくちばしを大きく開ける。漆黒の刃が人形を貫く前に、その四肢はばらばらになっていた。
「次はわしらだ。覚悟は決めたか」
 そう言って徳右衛門を挑むように見た。覚悟も何も、と徳右衛門は戸惑っていた。芸の優れた者が飯綱の加護を得てこの広間から抜け出せるという。傀儡や熊野の術には神通力があるのかもしれないが、三河万歳はただめでたい言葉で寿ことほぐだけだ。
 父は何も教えてくれなかった。
 今更怒りがこみ上げてくる。このような術があるなら糸口でも教えてくれればよかったのに。結局は己の欲を満たすことしか頭にない男だった。ともかく、ここを生きて出るには芸を披露せねばならない。
「ではわしらからやって見せるか。与兵衛、用意をせい」
 与兵衛が小さながしらを頭にいただき、ぽんととんぼを切って見せる。
こしがた、御国名物さまざまなれど……」
 父親が渋い声で口上を述べる。それはやがて越後の情緒と祝いの言葉を合わせた謡となる。それに合わせて小さな獅子が舞う。
「室の小口に昼寝して、花の盛りを夢見て候。夢のうらかた越後の獅子は、たんは持たねど富貴は、己が姿に咲かせ舞ひ納む、姿に咲かせて舞ひ納む……」
 見事、というよりは痛々しい。
 それでも熊野神人は手を打ってはやしている。傀儡師は心を失ったように、壊された人形を見つめている。何年もかけて手になじむように育ててきた商売道具を破壊されるのは、門付けにとっては殺されるに等しいのだろう。
「形は見えている。真と理を」
 それまで黙っていた薬売りが、徳右衛門に向かって言った。どういうことだ、と問うても答えはない。だが、芸を競わねばならないのなら、やるしかない。覚悟を決めて壇上に立つ。万歳は二人でやるもので、言葉の掛け合いもあるが一人は鳴り物でもう一人が語り謡う。
 徳右衛門は全て一人でこなす技量はない。鳴り物のない万歳も間が抜けているが、ふいに鼓の音が聞こえてきた。音のする方を見ると、薬売りがたん、ぽん、ぽん、と軽やかに打っている。
「おいおい、助太刀かよ」
 角兵衛獅子の親父が文句をつけるが、
「互いの芸を不足なく競うことが肝要だ」
 薬売りが静かに言い返すと、親父はしばし考えた。
「まあいいだろ。手間が一つ省けていい」
 鼓の前に座る薬売りを振り向くと、すっとばちを上げた。慌てて前を向き、口上を述べる。
 三河万歳にも様々な流儀があるが、徳右衛門の流派ではまずこの万歳の由来と効能を述べる。多くの芸には口上がつきものだが、徳右衛門の父は特に力を入れていた。
「中身などどうでもいい。どうせ誰も聞いてはいない」
 だが口上がまずいと、人は銭を出そうなどと思わない。だからこそ、裏地はぼろでも表はきらびやかで清らかでなければならないし、万歳の中身はどうであれ口上できつけなければならない。
「あら千年きちじよう、年改まりて、かほど目出度き折からに、後となる才の才三に、一寸ちよつと見参な申そう。参りますとも参りますとも。太夫さんのおおせなら、食う物も食はず飲む物も飲まずじのやま、山をけころばし、駿河するがの海を一またぎおそかろう……」
 口上を述べているうちに、徳右衛門はここに来た理由を思い出した。飯綱の妖だのモノノはよくわからぬが、ともかく祝言を述べて稼がねばならない。
「この御家の安らかに、祝詞のりと奉る。東西南北中央に、神五柱の守護まもりなり。塞神三柱を御門に祭り、まがかみを払いやる……」
 ただめでたい言葉を述べるのではない。口上だけが肝要なわけでもない。わざわいはらい、福を招く力は万歳にもある。
 薬売りの鼓は思った以上に達者で、徳右衛門の万歳は興に乗り始める。だがそれを妨げるように、身の丈を超えるような獅子が立ちふさがった。薬売りの鼓の調子に合わせ、徳右衛門の万歳と獅子の舞が交錯する。
 万歳が世の楽しみを謡うほど、それを拒むようにきばき、その間から炎をのぞかせる。角兵衛獅子の親父は獅子の荒れ狂うさまを満足げに見つめ、
「かかれ!」
 と命じた。獅子は徳右衛門に躍りかかり、危うくその爪を避ける。恐怖が急にせり上がってきて、万歳を止めそうになる。だが、薬売りのたたく鼓がそれを許さない。
 だが、逃げ出したくなるのを止めたのは、他ならぬその獅子自身であった。爪と牙は徳右衛門の一分先の空を切る。徳右衛門は特に武芸の心得があるわけでもないし、万歳を謡いながらでは足もともおぼつかない。
 それでも、獅子は襲うふりをして手心を加えている。その獅子の顔が不意に苦痛にゆがんだ。親父がむちをふるい、その背を打ちのめしている。
「何をしている。さっさと食ってしまえ」
 だが獅子はあらがうようにおびえと怒りを表すように激しいうなり声を上げている。徳右衛門の万歳は震えを帯びる。それを見て、角兵衛獅子の親父はかいさいを叫ぶ。
「その場しのぎの相方では芸にもならんな。それに比べてうちのガキの芸はどうだ。わしがしっかり仕込んだだけのことはある」
 鞭うたれた獅子は血走った目を徳右衛門に向ける。万歳の言葉は凶を吉に変え、吉を凶に変える。きようを勇に変え、獅子の目が大きく見開かれた。
「いざ……おん斬り斬り……」
 獅子は父の方にゆっくり向き直る。ろうばいした父は鞭を激しく振り回す。獅子の体から血潮が飛び散るが、それまで見せていた怯えはもはやない。獅子の怒りの盛り上がった肩の筋肉ごしに、恐怖に埋め尽くされた父の顔が見える。
 獅子となった我が子に食われこの勝負とうつし世からおりるがいい。徳右衛門が冷ややかにそう思った時、そこまで、と声がかかった。鼓を打っていた薬売りが手を止めていた。
「先に芸を止めた者が敗北となる」
 獅子は童の姿に戻り、肩で息をついている。小便を漏らし、頭を抱えて震えている父のもとに歩み寄ると、微笑んで手を差し出した。握り返そうとした父の手を払いのけ、父が持つ鞭を渡すように促していた。

「わしらで決着をつけるということだな」
 熊野神人の顔には自信があふれていた。
「お前さんの芸でわしに勝つのは無理だろ。一つ取引をしないか。この勝負、敗れた方は後々の芸に障るほどに打ちのめされる。お前の三河万歳は相方のいる芸。とはいえ、そこの薬売りともずっと組むわけにもいくまい」
 徳右衛門は鼓の前から動かない薬売りを振り返った。わずかに顔を伏せてその表情はうかがえないが、この広間から出るまでは力を貸してくれそうだ。
「角兵衛獅子の童を手ごまに使ったあたりはなかなかさといところを見せおったが、まだそこまでの分別はないか」
 熊野神人は立ち上がると朗々と祝詞を唱え始めた。その祝詞に合わせて小さな黒い虫のようなものが宙を漂い始める。徳右衛門が思わず手を出すと、手のひらにそっと降り立つ。よく見るとそれは三本足のからすであった。
「さっき人形を襲った烏とは違うのか」
「変わらんよ。熊野の神々は偽りを許さぬ。お前の芸、施主どのへの祝い言が真でなければ、しんくちばしがお前のぞうを貫くであろうよ」
 神人の言葉が脅しではないことは先ほどの傀儡師との一戦でわかっている。三河万歳にはいくつかの台本がある。新年に謡われるめでたい演目に偽りなどあろうはずがない。薬売りを振り向くと、鼓の撥をすうと上げた。
 三河万歳の門付けなのだからその芸をやるしかない。
 薬売りの鼓に合わせて両手を大きく広げる。長寿の鶴の所作とめでたい言葉を合わせて施主の一年の幸いを祝う。三本足の烏が数羽、頭上を舞っている。
「新年を祝う資格がお前にあるか?」
 熊野神人が神符を数枚宙に放った。それは一枚の鏡へと変化して徳右衛門を映し出す。陽気な万歳をうたう彼の傍らに、別の人影が浮かび上がってきた。
「何が見える? その青ざめよう、お主の心の奥底に潜む偽りを映し出しているのではないか」
 人影はやがてきらびやかな衣をまとった長身の男へと姿を変えた。低い声で何かを謡っている。それは徳右衛門にとっては見慣れた姿だった。一人虚空に向かって万歳を謡う。施主の前での明るさや朗らかさはなく、いんうつで聞き取りづらい。
 これが父のけいの仕方であり、うまくいかないとこぶしが飛んできたりあしにされたりする。背中を向けている間、その前に出ることは決して許されない。何かを唱えつつ、背中を丸めて細工のようなことをしている。
 禁忌を犯しているようなどうを感じながらゆっくりとその背中に近づいていく。父はいつも何かを隠していた。その秘密に近づこうとすると、それが故意ではなくても激しいちようちやくを加えてきた。
 だが今日の父は息子の近づく気配を感じているはずなのに、手元の細工を止めない。肩越しにそっと覗きこむと、その手元には細い銀の棒があった。棒の中心には小さな穴があいていて、父がそれを掲げると向こうに小さな光が見えた。
 その光の向こうに熊野神人もいる。神人は父から棒を受け取り、満足そうに眺めている。
「何が見える」
 熊野神人の声が問う。
「細い、穴のあいた棒……とお前だ」
 答えるつもりはないのに、声が勝手に応じてしまう。鏡に映った父の手にある銀の棒こそが、飯綱、管狐がすみとしていた管だというのか。
「お前の親父が下手人ということで間違いないようだな!」
 己が映っていることは無視して神人は叫んだ。
「熊野の神々の前で罪を認めよ。父がここにいないのであれば、代わりにお前が飯綱の力を得るのはこのわしだと認めよ」
 そういうものか、とぼんやりした頭で鼓の薬売りを振り向く。鳴りやむことのない鼓の音がもうろうとした頭を辛うじて正気につなぎとめている。
 鼓に合わせるように薬売りのくちびるが動いている。
かたち……まこと……ことわり……」
 それをどうすれば良いのだ。徳右衛門は迷った。熊野神人の得意げな顔を見ていると、朦朧とした意識の中からある記憶が湧いてきた。父や門付けたちが新年ここに集った理由。
 飯綱の形は既に見た。では「真」とは何だ。熊野神人はこちらに真を問うてばかりいるが、己はどうなのだ。目の前の鏡に手を伸ばし、ぐいとその向きを変えた。

「何をしやがる……」
「父と組んでいたか」
 徳右衛門の問いに熊野神人は言葉に詰まった。鏡に映る己から目をらし、広間から逃げようとする。だが鏡は砕け、漆黒のやじりとなってその背に突き立つ。動かなくなった神人を見て、徳右衛門は口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
 一村の富貴をつかさどる力が手に入るのだ。もう笑いたくないのに、笑い続ける。涙が流れ、腹の中身を全て吐き出してもまだ笑い続けていた。鼓の音が徐々に低く重くなり、つちで全身がたたかれているように震え、息苦しくなる。
 空気を求めて口を大きく開く。全身が閉じられた袋のように膨らんでいく感覚にのどを押さえて口を開く。
「よく……やった」
 かすれてはいるが、聞き覚えのある声だ。
「どうして……」
 口が何かにふさがれて声にならない。
「飯綱は『管』に住まう。その『管』は人に依る。管が依る者のこんぱくには管を収めるくうげきがなければならぬ。魂魄の空隙は即ち怒りと憎しみ、そしてあきらめ……」
 あごの骨がばきりと外れる音がする。これまで父に責めさいなまれてきたのは飯綱の入れ物になるためだったというのか。
「恨むでない。これは父祖よりの願い。奪われし宝を取り戻すために必要だったこと」
 父の声と共に体が溶けるように崩れ落ち、床の上から父の足だけが見える。その足の間から黒い鼠のようなひらめきが視界を走り、口の中に飛び込んでくる。
「我らの父祖はこの村に住み、飯綱の加護を受けて豊かに暮らしていた。だがある年、ある門付けにその力を奪われて村を追われたのだ。各地に散った我が一族は門付けとなって呪力を蓄え、奪われた飯綱を奪い返すため再びここに集まった……」
 やがて全身に力がみなぎり、烈風が広間の中を縦横に飛び回る。これこそが飯綱の力、人の富貴も命運も自在にできる精霊の力だ。だがその時、かちん、と乾いた音が一つした。
 まいきばみ合わされ、邪をはらう音を発する。だがそれは獅子舞の牙ではない。鮮やかな装飾をまとった短剣のつかがしらにある獅子が、徳右衛門を見ていた。その剣をつかんだ薬売りが構えをとる。
「薬売りよ、そんな芸を隠し持っていたか」
 父はもはや人の姿をとどめていなかった。そして薬売りの姿も衣が消え去ってかいな肉体があらわとなり、その体に蛇のような紋が渦巻いている。
「どこで飯綱の話を聞きつけおった。誰にも渡さぬぞ!」
 父は長く伸びた前歯をき出しにしてえる。すると障子を締め切ってあるはずの広間に激しい風が吹く。その風が頰をかすめていく。指で触れるとぱっくりと裂けている。
 刃の風は目に見えぬ嵐となって薬売りへと殺到する。
「一剣も抜かず飯綱の力にあらがうか」
 飯綱の姿は父の周囲に無数に現れ、次の瞬間薬売りの四肢からぱっと鮮血が散った。
「真は見えた。だが、理が足りぬ」
 うめくように薬売りが言う。その間にも風の刃に傷つけられ、ついにはひざをついてしまう。徳右衛門は助けようにも体が動かない。
「足りぬのはお前たちの力だ。この飯綱の力があれば、とこしえに富貴を得られるであろうよ。新たに妻をめとり、多くの子をなしてわしだけの王国を築くのだ。かつて、我らの祖がしたように、飯綱を奪ったこの屋敷のあるじがしたようにな!」
 自分が妖となった父の「管」になっていたのなら、と力を振り絞って立ち上がろうとするが、やはり力が入らない。父が抜けた分、空袋のように頼りない肉体となり果てたのだ。
「あんなくそ親父がいないとどうにもならないのか」
 己をののしる。それを見て、父はにやにやと笑うばかりだ。
「案ずるな。次はもう少しまともな母親を探して、新たな息子をかわいがってやるさ」
 物心ついた頃から何度も言われた。父にとっては稼ぎのために育てただけの人間だ。いや、人としての扱いすらなかった。熊野神人に敗れて人形を抱きしめた傀儡師の方がまだ情がある。
 もう一度殺してやる。
 すさまじい殺意がからっぽの肉体に渦巻く。それは全てを吸い込む闇の奔流となって徳右衛門の中に満ちていく。傀儡師と人形を、かくの親子を、熊野神人と神符を、そして醜い異形となった父親を、肉体の一部となり、満たされたものが新たな何かへとへんぼうしていく。
 これこそが「飯綱」……。
 山深い里の人々の暮らしとささやかな富を我がものとする旅芸人たちの欲望と我執が、山の妖をまがまがしいモノノへと変えたのか。

「理、見えたり」

 かちん、と剣の柄頭にあしらわれた獅子が牙を嚙み鳴らした。徳右衛門の前に蛇紋のような模様を全身にまとった剣士の姿が大写しになる。剣のきらめきはきんらんよりもまばゆく輝いて見えた。

    ※

 村はずれの粗末な家の前に、荒れ果てた数反ほどの畑が広がっている。山の斜面に沿って切りひらかれた畑は荒れ、背丈ほどに伸びた草の中で青年が一人くわを振るっている。
「兄ちゃん、ちょっと休みなよ」
 家の前で豆を干していた少年が声をかける。
「まだ慣れてないんだからさ」
「春が来る前に土を作らなきゃいけないんだって」
 与兵衛は徳右衛門の言葉を聞きながら、切株の前でとんぼを切って見せた。
「門付けほど苦しいことはないと思ってたけど、百姓も大変だよ」
「俺は気に入ってるけどな」
 鍬を下ろして汗をぬぐう。奥三河の春先の風は冷たいが、陽光の下で土と格闘すれば汗も流れる。徳右衛門は腹の傷にそっと触れた。薬売りの剣は確かに体を両断したはずだったのに、こうして命を長らえている。
 あの後、門付けたちは朽ちた広間のあちこちに倒れ、薬売りはまた元の姿に戻って端然と座っていた。こうを担ぎ、去ろうとする薬売りに、徳右衛門は何があったかをたずねた。
「モノノ怪が姿を現した。故に斬った」
 そう答えが返ってきたのみだった。
 命を拾った門付けたちはしようぜんとして去り、もはや芸に未練のない者は村に残った。飯綱の加護はもはやしようの屋敷にも、徳右衛門の肉体にもない。だが彼は、これまでにない満たされたものを感じていた。

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:モノノ怪 執
著者:仁木 英之
発売日:2022年06月10日
ISBN:9784041121641
定価:726円(本体660円+税)
ページ数:256ページ
判型:文庫判
レーベル:角川文庫

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