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『おねはん』の話

 昭和9年生まれの母は6人きょうだいでした。一番上に姉、続いて長男、母、妹が二人、末っ子に母と同じ干支、つまりひとまわり下の弟。祖母は3人流産したそうで、『おかあちゃんは、ずっとおなか大きかった』と母はよく言っていました。


 一番上の姉は、家族から愛着を込めて『おねはん』と呼ばれていました。幼児の時に高熱を出し、重い半身麻痺と知的障害が残りました。子供の頃はそれでも朗らかにきょうだいとも遊んでいたようなのですが、長ずるにつれ精神を病みました。ぼくの知っている叔母の『おねはん』は部屋の端っこで、一人で何人もの人格を演じでいるのか、独り言をニヤニヤ笑いながらずっと呟く人で、慣れるまではかなり不気味でした。

 『おねはん』は還暦前後くらいに、祖母と二人で暮らす母の実家で、ある朝祖母が様子を見にいくと亡くなっていました。内臓、特に心臓がだいぶ弱っていたので十分予期でしたことではありましたが、家族のショックは大きなものでした。

 ぼくが、小学校3年生の時、『おねはん』の父である祖父が亡くなりました。明治33年生まれの祖父は高学歴のインテリだったようですが、大酒飲みの冷たい男で、母によると祖母に振るう暴力を娘たちが止めるということもしばしばだったそうです。重度身体障害者であった『おねはん』を顧みることもなく、祖父の葬儀で家族が誰も泣いていなかったのが印象的でした。いや、母だけが、少しハンカチで目頭を押さえていたようですが、結婚をしないで両親と障害の重い姉の面倒を自分が見ようと思い詰めていた母は、いろんな祖父の生き様が情けなかったののかもしれません。『おねはん』の葬儀でみんなが見せた涙や、叔母たちの哀しみで凍りついた表情は今でも忘れられないです。


 母たちが育った昭和の初めは障害者はまだまだ家の恥、とされた時代でした。母は祖父が振るった暴力については、当時はよくある話という感じで話してくれていましたが、家督を継ぐべき母の兄だけ、特別に毎晩お膳が用意され、おかずも一品多かったことには『あれは許し難い』と憤っていました。戦後の食糧難を生きた世代でもあり、食い物の恨みは怖いなあと思う人もいるでしょうが、これは食事に限った話ではなく、家父長制の差別構造全体への母の異議申し立てを子供のぼくにわかるように語って聞かせたのだなと思っています。

 特別に大事にされた長男は、きょうだいの中では老いた両親にも障害のある姉にも一番冷たく、戦前の羽振りの良かった母の家の恩恵を全く受けていない末っ子の弟が、最も親想い・姉想いであったことはなんとも皮肉です。

 母は結婚することを望んでいませんでした。結構モテたそうなので、おつきあいもいろいろあったようなのですが、いざ結婚となった時に、身内に障害者がいるせいで破談になったときの祖母の気持ちを思うと、『おかあちゃんにそんな想いは絶対にさせられへん』と一生独身のつもりもあったと言っていました。そんな母が、特に優れた技能を持っていたわけでもないため、ある意味仕方なく結婚相手として選んだのは、最も家父長イメージから遠い男性でした。喧嘩はしませんが、なかなか気持ちのすれ違いの多い両親も、晩年は病身を互いにいたわりつつ、仲睦まじく暮らしていました。良い両親に育てられて良かったなあと思っています。母が戦前からのいろんな苦労話を聞かせてくれたのもよかったなあと思っています。


 昨年でしたか、なぜそんな話になったのか思い出せないけれど、娘が確か夕食の片付けをしている時に『わたしはここに、おとうちゃんとおかあちゃんのところに生まれてほんまによかった』と言ってくれました。欠点だらけの親だけど、なんとか親の役目は果たせてきたのかなあ、とちょっとほっとしました。


 ずっとそう思ってもらえるようにしたいと思っているのですが。

 写真は散歩道にある柿の木。母が柿が好きでした。まだまだ青いです。

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