見出し画像

計画が苦手

僕は計画が苦手だ。
自分のこととなるとほとんど計画できないし、仮に計画したとしてもその通りに進むことはほぼない。これは、想定外の邪魔が入るからその通りにならないとか、そういうレベルの話ではない。来週から北海道に旅行に行く計画を立てたのに、いざその日になると行かなかったというレベルの話だ。

僕は高学歴なほうなので、よく目標達成型だとか、計画が上手だと思われることが多い。だが、実際にはそんなことはない。生まれてこの方、自分のことを目標達成型だなんて思ったことはない。

自慢に聞こえるかもしれないが、僕は早稲田の赤本を買ったことがない。開いたこともない。早稲田以外には九州大学にも合格したが、こちらも赤本は買っていない。何なら、早慶オープンとか、九大オープンとか、特定の大学に絞った模試すら受けたことがない。

現代の最新の受験事情はだいぶ違ってきているのだろうが、僕の時代は受験勉強が効率化されていた時代だと思う。どの予備校もそれぞれの大学に対して対策プランを持っていて、それに従えば効率的に最短ルートで合格を勝ち取ることができる。だから、東大を目指す人はどこかの予備校の東大コースなるものに入っておけば、必要ないことに無駄な時間を割くことなく、効率的に勉強することができる。

僕は早稲田卒でありながら、志望大学は早稲田ではなかった。これは、東大や東工大に落ちて滑り止めで早稲田に行ったとか、そういう話ではない。僕は最後まで、志望大学を決めることができなかった。行きたい大学がなかった。

高校は、進学クラス的な、難関大を目指す人が行く学科に進んだ。だがそれも行きたい大学があったからではない。そのとき行ける高校の中で一番難しいところに入っただけだ。先のこととか、将来とか、何も考えていなかった。

行きたい大学がないから、おのずと対策が立てられなくなる。好きな女性が筋肉質な男性が好きだと知ったら、ジムに通ってマッチョになればいい。だがそもそも好きな女性がいないなら、対策は必要ない。やることがない。僕はずっとそんな状態で勉強を続けていた。

そんなふうだったから、いよいよ具体的にどこを受験するか決めるとき、僕は偏差値で選んだ。そのときの僕はとにかく難しい試験問題を解きたいという謎のモチベーションを持っていたので、大学名よりも、その横に書いてある数字ばかり見ていた。親から浪人は許さないと言われていたので、確実に合格できそうだけど、その中では難しいほうの大学にしようという消去法で早稲田にした。あと母校への実績貢献として九州大学を受験した。

この話を早稲田でできた友達にすると、みんなからビックリされた。早稲田に来るような人は、だいたい予備校に通って勉強してきている。だから、当然早稲田への対策もしている。そんな友達からすると、「対策しない」なんて、効率が悪すぎるのだろう。

だが僕はこうも思う。もし対策していたら、勉強を嫌いになっていたかもしれないと。なぜなら、別に早稲田に行きたいわけじゃないからだ。早稲田に行きたくないのに早稲田の対策をさせられたら、たぶん嫌になる。好きでもない女性がオシャレな男性を好きだと知ったところで、明日からオシャレをしていく気にはならない。その女性のためにオシャレしてこいなんて強制されたら、たぶんその女性のことが嫌いになるに違いない。

僕が勉強を続けられたのは、ある意味「行きたい大学がない」という自分の心に正直になって、無理に志望校を決めなかったからだ。学校の先生からは、嘘でもいいからどこか目指したほうがいいと言われたが、僕はそれは間違いだと思う。嘘で書いた志望校なんて、あとあと先生に「お前は〇〇大学を目指すって言ったんだから、それにふさわしい勉強をしろ」って脅しに使われるくらいで、なんで目指してもいない大学のために頑張らなきゃいけないんだろう?と、自分の人生が嫌いになるに違いない。

僕はありのままに、行きたい大学がないスタイルだったから、勉強が本当の意味で嫌いになることはなかった。(本当は遊びたいのに…勉強なんてなくなっちまえ!くらいの感情には2万回くらい襲われた)最後の最後まで、好きに勉強することができた。そして、3年間の勉強で到達したちょうどいけそうなところを受験した。

だから、早稲田合格もまったく目標達成ではないし、3年間の計画性は皆無だ。計画は高校のカリキュラムに従っただけだ。

では、なぜ僕は目標を持つことや計画を立てることが苦手なのだろうか。僕は自分の内面と長く向き合ってきた結果、ひとつの仮説を持っている。それは、「変化に対応するため」である。

……カッコよく言い過ぎてしまった。
ダサく言えば、「あとになって気が変わるのが怖いから決断をギリギリまで先延ばしにしている」のだ。高校1年のときから早稲田を目指して対策してきて、直前に志望大学が変わったらどうしよう。弁護士になりたくて法学部に入ったのに、卒業する頃になって医者になりたいと思ってしまったらどうしよう。

この不安は、現在社会人になった僕の日常のあちこちに見ることができる。まず、昼ご飯を買ってから会社に行くことはない。買ってから行くことによって、昼休みを10分ほど節約できるとわかっているのに、そうしない。なぜか?いざ昼になって、違うものが食べたくなったら嫌だなと思うからだ。
ジムの予約も、ジムに向かう道中でする。事前に枠を確保することはしない。その時間に行くと決めたら、それまでの行動をある程度決めることになる。それが嫌なのだ。

逆に、「決まってないと嫌」という人がいる。Googleカレンダーは予定でぎっしりだ。3ヶ月先の有休申請をしている人を見ると腰を抜かしそうになる。僕からすると、本当にすごい。同じ人類だとは思えない。そして僕のようなタイプが「決まっていないと嫌」族とデートをすると、だいたいお互いに「次はないな」となる。僕は「ご飯どこで食べようか~」なんて言いながらあてもなく街を彷徨うのが好きなのに、相手はその無計画な感じに耐えられないのだろう。

要は、僕は未来の自分の気分を最優先しているのだ。今の自分の気分よりも。ちょっと深遠な言い方をすれば、未来の自分は他人だと思っている。だから、未来の自分がどういう気分かは想像することができない。もはや他人なのだ。

ちなみに、想像してもほとんど当たらないことが科学的に確かめられている。(この場合は、統計的にと言った方が適切かもしれない)

たしかダニエル・ギルバートさんか誰かの研究だったはず

だから、僕は計画が苦手なんだと思う。計画を立てるスキルがないのではなく、未来の自分の行動を決めたところで、たぶんその通りに行動しないことがわかっているから、計画を立てることに虚しさを感じるのだ。

かつては計画が上手くいかないことに悩んだこともあった。だが、今では悩んでいないし、僕は計画を立てることに向いていないと思っている。もっといえば、計画を立てたほうが上手くいかない人間だと思っている。

計画を立てるのは、仕事の中だけでいい。(仕事ではちゃんとできる。そもそも仕事では自分の気分を優先させたりしないから、計画が難しいとは感じない)

さて、今転職のオファーが2件来ている。どちらも今より好条件だ。こういうとき、人生に計画がある人はどれくらい迷うのだろう。計画外のことが突然現れ、そして検討する価値がある条件ではあるものの、不透明な部分もある。

実は、僕はこういうとき、ほとんど迷わない。そもそも人生に計画なんてないし、人生規模になると、立てたところでその通りになるわけないと思っている。昼飯でさえ朝思ってたものと違うものを食べたくなるのだ。だから、いつも鉛筆転がしとかで決めてしまう。

というわけで、明日鉛筆買いに行きます。せっかくだから、あとで後悔しないためにも高級なやつにしよう。高級鉛筆で決めたんだから間違いないって割り切れるように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?