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詩集の裏にいる詩人。詩編が詩集になると一冊の小説になる。

1999年12月15日初刷り。

現代詩文庫『平田俊子詩集』の裏表紙に写る詩人。

ぼくより、少し年下。
写真が、ぼくの友だちに似ている。友だちはファッション誌の元編集長だった。

この詩集のいちばん最初に出てくる詩にやられた。

「ラッキョウの恩返し」

「ラッキョウは苦手なんです」のひと言が、新聞の勧誘、クリーニング屋の周年記念、引越しの挨拶がわり、昔、父親にお世話になったからと、ひっきりなしに大量のラッキョウを吸い寄せる。
部屋も、タンスも、下駄箱もいっぱいにしてしまうが、捨てても、捨てても戻ってきてしまうか、ラッキョウのお礼にとラッキョウを持ってくる。

こんな日常って、どんな感じなんだろうと、ぼくは、直ぐに詩人の代わりに詩人の部屋に棲み始めた。

次が「そうじの科学」で、「鼻茸について」「田園」は、お猿畑におさるがなるお話。

「女の一生あるいは中山厚子」の厚子が所有している傷は、義父や、実母、継父、兄、従兄、長男、ごく身近なひとびとが刻み付けていった一生の系譜か...

巻末の詩人論、作品論。
吉増剛造さんは、第一回現代詩新人賞の選考時の大岡信さんと、鮎川信夫さんの言として、
大岡 詩の切っ先の強さという点では平田さんだね。何かに切りつけてますよね。
鮎川 自分も傷つくかもしれないけどね。相手には確実に傷を負わせる。
大岡 おそろしいね(笑)生理的な部分だけじゃなく、下降して行く能力がある、ということで信用できると思う。

その他にも、藤井貞和さん、笙之頼子さん、富岡多恵子さん、伊藤比呂美さんなんかが、一文を寄せている。

伊藤比呂美さんの「平田」と題した、詩人との長い交わりのところまで読み進んで、ぼくは思った。

詩は、ある種の詩編は、作品と解説まで含めて、ちょっと部屋のどこか目につきにくいところに置いておくにちょうど良い小説になることがあるんだ、と。



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