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「“砂漠の隅っこで帽子をかぶっている靴下が見つかった…”」

韓国のSF短篇集『この世界からは出ていくけれど』の掌編「ブレスシャドー」に出てくるある物質につけられた名前なのだが、あれっ、と思うでしょ、なんだっけって。

韓国文学は幾つか読んでいますが、SF小説はこの作品がはじめて。
掲載されている七つの作品が、どれもおもしろく、あっという間に読了、ベッドの上のその姿勢のまま再読に至るでした。

センスがいい。七作とも状況設定が、おお、そうくるか!と意表をつかれたというか、アイデアがとても新鮮。しかも「こんなこと、あるかもしれない...あったらどうなるんだ...」と思わせ、しかも少しも破綻の匂いがしない。

たとえば「ローラ」は、あるはずの三本目の腕を求めるローラと、それをなんとか理解しようとする恋人の話。失くした腕や脚ではなく、ぼくらから見れば正常な四肢を持って生まれてきた人間が、あるべきもう一本の腕を強烈に希求し、ついには義手を装着してしまうその深層を、世界中をルポして廻り一冊の本にまとめる恋人。
その本のタイトルが『間違った地図』
他のだれとも共有できない感覚、間違った地図のように、いつまでも目的(地)にたどり着けない。

著者は、1993年生まれのキム・チョヨプ。

彼女は、浦項工科大学で生化学を学び、在学中の2017年、第二回韓国科学文学賞中短編部門にて『館内紛失』で大賞、「わたしたちが光の速さで進めないなら」で佳作を受賞した若手SF作家。作品数は少数だが注目を集めている作家のようです。

「ローラ」のあとに出てくる四番目の短編が「ブレスシャドー」

発声器官の退化した“ブレスシャドー”のひとたちは空気中を漂う「意味粒子」を読み取ってコミュニケーションする。
花や植物から精製されるらしい「意味粒子」のことを、主人公のダンヒは幼い女の子だったころのこととして、こう書いている。

―人々の呼吸器に入った分子は嗅覚受容体と結合し、嗅覚受容体は意味を増幅させる。
・・・・・
初めて粒子が意味となった瞬間を、ダンヒは覚えている。
[ママ][きょうだい][ぬいぐるみ][水][歩く][ごめん][ありがとう]
それらは空気中に浮かんでいた。

そして、それが美しい光景だった、と。

ぼくが、これが現実だと思っている世界は、ぼくにしか見えていない世界で、ぼくが、ぼくの感覚器官で感じ取った素粒子を、ぼくの認知機能が分節化して出現させた唯一の世界で、ぼくにしか存在しないモノ。そして、隣にいるだれかにも、同じような世界がある。

聞き流してください、でもそう理解しているのですよ、ぼくは。
哲学者、井筒俊彦さんの著作にもそう考えていいんじゃないか、って記述があるし、キム・チョヨプさんもそう確信しているらしい。

こんな風に、

―わたしたちは、見て、聞いて、触ることのできるこの世界を現実だと思っているけれど、実際には“感覚バブル”(sensory bubble)に閉じ込められて生きています。
人間が見たり聞いたりできるごく狭い範囲の光と音、限られた形態の嗅覚と触覚、不正確な時間感覚。
わたしたちはその感覚バブルのなかで、これが本物の現実だと信じて生きています。
でも、わたしたちが本当に感知できるのは、数万通りの現実のうちのたったひとつなのかもしれません。

だから、このテクストを読んでいるひと、そう、とてもありがたいあなたと、あなたの斜め後ろにいるあのひとと、ぼく、ぼくらはいつも少しばかりズレていたり、すれ違ったりしているようです。

チョヨプさんは言います。
―でも、そんな瞬間を不器用ながら描いてみることができる、それがSFの魅力ではないでしょうか。
この七つの掌編は、そのあたりから産まれたのかもしれません。

“ブレスシャドー”の件でした。
言葉のしゃべれるジョアンという漂流者のために、彼女の世話をするダンヒが生成した意味粒子につけた名前が、「“砂漠の隅っこで帽子をかぶっている靴下が見つかった…”」なのですが、なぜ、そんな名前になったかは、なにしろ短編なので、これ以上は明かさないでおきます。

象を飲み込んだボアのあの絵。
センスも感受性も源泉が深い。

ぼくには、魂(池田晶子さん謂うところの、ぼくの魂なのか、魂がぼくなのか、そのあたりは定かではないのですが)の“重し”のようになっている本が幾冊かあります。

アリステア・マクラウドの短篇集『冬の犬』とか、サン=テグジュペリ『夜間飛行』とか、
井筒俊彦さんの著作とか。
重し、戒め、顧みる、凝視、沈思する、とか。

そして、韓国の女性作家ハン・ガン『少年が来る』とか。

韓国の女性作家の作品というと、短絡に「フェミニズム文学」を思い浮かべてしまうが、この本は、それ以前の人間として存在することへの疑問、存在が隠し持つ残忍な正義、隣人はもとより、同国人へも、なんのためらいもなく銃口を向け、トリガーを引き絞る。
国家とは何ものなのかという問いが、失笑とともに虚しく風に飛ばされていきます。

1970年、光州に生まれ、満九歳まで過ごした故郷は、彼女の一家がソウルに引っ越した数か月後、1980年の5月、軍部クーデターに関連した戒厳令軍による学生、一般市民に対する虐殺、拷問、監禁などの非道行為が、国の正規軍によってなされます。
これがいわゆる光州事件です。軍による死亡者数は144人とされましたが、実際はその数倍だと言われています。

著者ハン・ガンか、小説のなかのハン・ガンか、彼女は、事件以前にひとりの少年と、どこかですれ違ったはずだと考えはじめます。

―担任ではなかったけれど、作文を出させると出来の良い文を書く子だったから覚えているんだよ。

中学校の教師をしていたハン・ガンの実父が本文のなかで言っています。
少年の名はトンホ、十五歳。
道庁に立てこもっていて射殺された、この小説の主人公です。

著者ハン・ガンは、生き残ったものと、いのちを散らされたもののその後を、ねばり強く、ていねいに取材を重ね、血の一滴が滲むようなマス目を、それでも抑制した筆致で書き上げています。
後年、トンホの骨は埋葬されていた墓から出され、兄たちの手でひとつひとつ、きれいに洗われたそうです。
兄は言います。トンホは撃たれて即死したから幸運だったかもしれない、いっしょに撃たれた高校生は、まだ息があったのに同国人兵士によって止めをさされたのだ、と。

キム・チョヨプの『この世界からは出ていくけれど』に触れて、実は、ちょっとほっとしています。
同じ山河から、野焼きをほどこされた草原から、また、あらたな文学が新芽のごとく芽吹いている。

そんなことを想ってしまった。

重しを再読しなければ。

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