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【函館】第1回 「箱館」時代の「函館」~幕末の外国船来航~

こんばんは、今週は結構ハードです。でも、まだ火曜日です…水木は少しペースを緩めて、ミスをしないように、かつ気持ちのリフレッシュをしながら仕事を頑張っていきたいものです。


さて、今回の観光地紹介の舞台は【函館】です。北海道で、札幌の次に名前が挙がる都市ではないでしょうか。私も以前、北海道に行ったことがあるのですが、函館と札幌エリアを観光しました。

現在は「函館」という字を使いますが、以前は「箱館」という表記でした。名前の由来にはいろいろな説がありますが、室町時代の人が函館山の斜面を見て、「形が箱に似ている」というものがありました。個人的には、現在の「函館」という字よりも「箱館」の方が好きなのですが、皆さんはどうでしょうか?



今日の話の最初は、私の経験から話したいと思います。最後までお付き合いください。

私が北海道旅行で函館を選んだ理由は、「五稜郭」をこの目で見てみたかったからです。ここは、戊辰戦争の舞台としての歴史を持っていますが、やはり星形を見てみたいという思いが一番強かったです。五稜郭の歴史については、また次回お話しします。


五稜郭タワーに登って、星形の形に感動した後、実際にこの星形の中に入っていきました。すると、ちょうど中央に江戸時代風の建物がありました。「ここは何だ?有名な場所なのか?それにしては、パッとしないところだな」と感じました。旅行前にリサーチした段階ではこの建物の存在を知りませんでしたが、せっかくなので中に入ってみました。後々、この建物は「箱館奉行所」を3分の1サイズで再現したものだと知りました。



今回はこの「箱館奉行」がつくられた、幕末の歴史を見ていきたいと思います。


幕末の歴史を見ていくわけですが、最終的には鎖国をやめて開国をするという話は、【横浜】を扱ったときに確認しましたのでそちらを読んでみてください。今回は開国の少し前、「外国船が頻繁に日本に来るようになった時期」を見ていきます。


日本が江戸時代の後半を迎えている時期、欧米諸国では「産業革命」が起きていました。イギリスがその筆頭です。これまでは、手動で製品を作っていましたが、機械を使って早く大量に製品をつくれるようになりました。たくさん作れるようになるということは、そのための原料がたくさんほしい、そして完成した製品を売る場所を見つけたい、そんな思いで欧米各国はアジアへ進出していくこととなります。


そんな中で日本に最初に来たのはロシアです。ロシアは、1792年にラクスマン根室に派遣し通商を求めますが、幕府はこれを拒絶します。これまで長い間、鎖国をしていたわけですから、この対応は自然なものだと思います、その後、懲りないロシアは1804年に長崎レザノフを派遣します。しかし、ここでも幕府は拒絶の姿勢を貫きます。


しかし、幕府の中にも少しずつ危機意識が芽生えてきたため、当時「蝦夷地」と呼ばれていて、ロシアとの地理的な位置も近い北海道の扱いに力を入れていきます。

まず1799年に、東蝦夷地を幕府直接の支配が及ぶ地域(直轄地)にし、1802年には「蝦夷地奉行」を置きます。これは、蝦夷地を管理する役職だと理解してください。その後、この役職は「箱館奉行」と改称されます。

その後、1807年に全蝦夷地を直轄とします。同じ年に、函館奉行を「松前奉行」とします。このようにして、蝦夷地の管理を確実なものにしていきました。

その後、1807年のフェートン号事件をきっかけに、外国船を見たら追い払おうという「異国船打ち払い令」が制定されます。なかなか強気な法令ですよね

しかし、そんな強気な姿勢が長くは続きませんでした。なんと、日本にとって最強の清(中国)がアヘン戦争で敗れたそうです、清が負けたことを知った日本は、打ち払いではなく、薪水を与えたりするなどの政策に切り替えることとなります。

このようにして、外国船の来航に対して幕府は諸政策をとり、最終的には開国をすることとなります。


今回、少しだけ「箱館奉行」も登場しましたが、これは、開国後も北海道開拓の中心となった役職です。何の知識もなく訪れてみるとパッとしませんが、実はこの建物が幕末・明治維新の北海道の中心であったと考えると、やはり観光地についての知識はあったほうが楽しいのではないかと思いました。五稜郭を訪れた際は、是非。

次回もよろしくお願いします。

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