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第78回 財務諸表とは・・・・

先週までの四季報の銘柄を説明する中で、情報として財務諸表を書いていました。
が、その説明は、まだしていませんでした。
それは、先に財務諸表の説明をしても、理解が追い付かないと思ったからです。
そこで、今回から数回に渡って、財務諸表の説明をします。
そうしないと、今度は逆に四季報の説明の理解が出来ないと思うからです。

まず、日本に財務諸表が伝わり、公式に使用されるようになったのは明治時代になってからで、国家ではなく、会社が西洋との交易を開始するようになってからです。
坂本龍馬が「カンパニー」と言っていたくらいですから、江戸時代の日本に会社は存在しませんでした。
つまり、明治時代になって、会社と言う組織体系が輸入されると同時に、財務諸表も輸入されたのです。
ですから、それ以前の幕府や大名たちは、商人がどれだけの商売をして、利益を上げているのかを知る由も無かった訳です。

時々、時代劇で、商人の旦那さんが大福帳に書いている場面が出てきます。
この大福帳は、当時の帳簿の一つなのですが、単なる売上げを羅列して書いているものに過ぎません。
なぜなら、当時は掛け売りが主流だったので、お盆や年末に代金を取り立てるために、細かく記録しておく必要があったのです。

このため、当時の商人たちの会計は、ドンブリ勘定でした。
販売しても直ぐに入金がある訳では無く、代金の取り立てはお盆と年末ということになっていました。
そして、そのお盆と年末を逃げ切ると、次のお盆と年末まで取り立ては無いという暗黙のルールらしきものがあったのです。
つまり売掛金があっても、簡単に回収できるものでは無く、今でいう貸倒金も多かったと考えられます。

これは幕府にとっても頭を抱える問題でした。
何故なら、農民から取り立てる年貢は明白です。
米の出来高は、田んぼを見れば直ぐに分かります。
ですから、課税し易かったのです。
また、工人たちも、制作物の数量から、ある程度の利益が予想できます。
が、商人の場合は、そうはいきません。
なぜなら、工人たちと違って、仕入れ値や売値が変動する上、余りに売買する量が多いからです。
ですから、商人への適切な課税方法が分からなかったのです。

昔は、「士農工商」という言葉は、身分の違いを現していると日本史の授業で教えていました。
ところが、今はそのように教えていません。
なぜなら、この「士農工商」と言うのは、単に課税方法の違いを現しているに過ぎないだけで、身分の違いなどと言うものでは無いからです。

さて、公式には財務諸表が存在しない江戸時代ですが、一部の商人の間では室町時代末期から財務諸表に良く似た帳簿が伝わっていました。
その帳簿の所有者は、近江商人たちです。
近江商人は、首都である京都への近さと、琵琶湖の湖畔と言う稲作に適した地の利を得て、独自の資金、商品管理方法を考え出したわけです。
なぜなら、この頃の日本は、田舎に行けば行くほど、まだ物々交換が主流の時代です。
貨幣文化が熟成するには、やはり京都に近いという文化的条件が必要だった訳です。

そして、この近江商人の財務諸表を使ってのし上がったのが、言わずと知れた羽柴秀吉です。
長浜城主時代に、後の五奉行と呼ばれる人物の中で、石田三成、長束正家、増田長盛が、この頃に家臣となっているのです。

彼らは、財務諸表の知識を駆使して、織田信長の一翼を担っていた羽柴軍の兵站を支えます。
孫子にも書かれていますが、戦争は戦力の勝負ではなく、兵站の勝負です。
兵站とは、輸送と補給です。
つまり、輸送と補給が上手くいかないと、食料や武器が足りなくなり、兵たちが十全の力を出し切れないからです。

ですから、秀吉の戦略には、時間をかけた派手な戦術が多いのです。
「鳥取城の渇え殺し」、「高松城の水攻め」、「中国大返し」、「小田原城包囲戦」などです。
どれも、兵站に問題があれば、為しえなかった戦いです。

つまり、財務諸表があれば、次のことが逆算的に分かります。
 ・今の金銭や武器の状況
 ・今後の金銭や武器の使用予測
 ・必要となる金銭や武器の時期と量
 ・金銭や武器の手配時期

これを企業で考えると、以下のとおりです。
 ・今の財務状況
 ・今後の収支予測
 ・収支予測を達成させるために必要な設備
 ・必要な設備投資の時期

以上のことから、戦争でも、戦術、戦略を考えて達成するには、財務諸表が絶対に必要になります。
つまり、どんな時でも、財務諸表を頭で考えながら計画すると、上手く行きやすいということです。

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