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【短編小説】奇妙な落とし物(中編)

それから数日後。
近所のスーパーから戻ってマンションに着いた時、集合玄関機の前で大家さんに声をかけられた。

「松田さん、先日はタオルを拾ってくださってありがとうね。205号室の佐野さんが落とされたみたいで、問い合わせがあったよ」

上の階の人はどうやら佐野さんと言うらしい。
郵便受けに貼ってある表札代わりの札を見れば分かることだが、そういえば一度も確認したことはなかった。

「ああ、それと子どもがうるさくて下の階の方に迷惑かけてないか、と心配なさっていたよ。3歳の男の子だって。動き回りたい時期だよね」

なんと、佐野さんにもうるさくしている自覚はあったらしい。
3つ目の足音の主はきっと3歳の少年だろう。
残り2つの大人の足音もかなり気になるので、騒音には無頓着なのかと想像していた。
わざわざ言わなくても良かったが、良い機会だった。

「そうだったんですね。実は音が結構響いてまして、うるさいなぁと感じることもあります。ただ、こういうのってお互い様ですから。むしろうちはお隣さんにご迷惑おかけしてませんか?」
「松田さんのお隣さんからは聞いたことないねぇ。うちのマンション、お隣はあまり騒音気にならないみたいなんだよ。上下はたまに言われるかなぁ。佐野さんに下の階に響いてるって言っておこうか?」

私は佐野さんが下の階の人に迷惑をかけている自覚があること、騒音に関してお隣同士はあまり響いていないという私たちの感覚が間違っていなかったこと、何より私たちの騒音による苦情がないことを知れただけで満足だった。
大家さんに「いえ、今のところは大丈夫です」と答えて、部屋に帰った。

その後も何度か足音のトリオに苛立ちを感じたが、それ以外では佐野さんを意識すること無く過ごしていた。



そんなある日。
洗濯物を干そうとベランダに出て、バスタオルを物干し竿にかけた時だった。

ベランダの床に何か黒い塊がある。
タイルの色が濃いグレーだから少し分かりづらく、私は塊の手前でしゃがんで、まじまじとそれを見た。

人毛だ。

長さは5~10cmくらいか。
1本や2本どころではない。
何十、下手をすると何百本もある。
留められてはいないが、束で存在した。

人毛だと識別した途端に背筋に悪寒が走り、肩甲骨から肘を経由し手首まで鳥肌が立っていくのが分かった。
とにかく気持ち悪くて、私は竿にかけたバスタオルを再び握りしめて、一度リビングまで引き返した。

どうしてベランダに人毛が?
何かの嫌がらせ?
もしかして、上の階から落ちてきた?
それにしても、落ちてくる途中で散らけないのか?
こんな束のまま落ちてくること、ある?
それより、なんでこんな時に限って陽介さんはいないの?

陽介さんはとっくに出社しているので、いないのは当たり前だった。
私はただただ気持ち悪くて、頭の中がぐるぐるして、狼狽えた。

リビングのソファに腰を下ろし、自分自身を落ち着かせようと試みた。
状況を踏まえ、再考する。

あそこに人毛が落ちている理由は分からない。
ただ、あのままにはしておけない。
だって気持ち悪くて、洗濯物を干すのもままならない。
捨てようか、でも、どこに捨てる?
ゴミ箱に捨てても良いが、そもそも部屋に持って入りたくない。
生垣の根元に置いておいたら、土に帰るかな?
髪の毛はタンパク質だから、いずれ帰るか。
よし。

平静さを取り戻すことに成功した私は、掃除用に常備している使い捨てのポリエチレンの手袋を右手につけ、再びベランダへ臨んだ。

なるべく“ブツ”からは距離を取った位置でしゃがみ、右腕をピンと伸ばした状態を保つ。
ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んでから、右手で“ブツ”を摘んで立ち上がる。
そのまま手すりの方に近づき、少し身を乗り出して、なるべく低い位置で指を離した。
私の手を離れた“ブツ”の行く末は、よく見えなかった。


私は仕事から帰ってきた陽介さんに“ブツ”の顛末を話したが、陽介さんも私と同じような感想を言っていた。


⇨後編に続く


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