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父の写真

久しぶりの実家で、大量に出てきた昔の写真に見入った。

まあこれは何年かに一度の恒例といってもよく、そのたびに「懐かしい~」とアルバムをめくる手が止まらなくなる。

今回もそれは同じだったけれど、写真をみたときの「印象」が変わっていた。

もちろん変わったのは写真じゃなくてぼくの心の方だろう。

これまでは「そこに写っているもの」を眺めて感慨に耽っていた。幼いぼくや姉、いまのぼくよりも年下の母、もう訪れることはないだろう生まれ育った団地など。


でも今回ぼくが感じたのは「父の目」だった。

ぼくや姉がそこに写っているのは、その写真が存在しているのは、父が「撮りたい」と思ったからだ。

公園で遊んでいる何気ない姿や、おにぎりをほおばる顔、刀のおもちゃをもって決めたポーズなど、それはぼくたちの歴史でもあるのだけど、同時に「父が見た景色」の記録でもあるのだった。もっと言えば「父が愛した景色」と言ってもいいのだろう。


父が他界してから写真をまとめて見るのが初めてだったから、多少感傷的になっていたということもあるかもしれない。でもそれ以上に、そこに写し出されている「父の目」は、まさにぼくが自分の子どもたちを撮った時に写っているものと同じように感じたのだ。

もちろん、撮っているときの父は今のぼくと同じく、そんなに深く考えてシャッターを切ったわけではないだろう。でも不思議とそこには、撮る人の気持ち、写る人が撮る人に寄せる気持ち、そんなものが丸ごと写りこんでいる。写真っていいものだと思った。

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