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【エッセイ】読解と解釈

読解は誰から見ても揺るぎない事実であり、解釈はその事実を下敷きとしたものである。
「解釈は人それぞれ」とされるが、「読解は人それぞれ」とはならない。読解は人それぞれのものじゃないからだ。

例えば
「A氏はカレーが食べたい」
とあったなら、A氏が食べたいものはカレー、これ以上の読解はできない。

そのカレーが甘口か辛口か、牛か豚か鶏かシーフードかは不明だ。
家庭の味なのか、定食屋のカレーなのか、はたまたインド旅行のときに食べたものでもう一度インドへ行く必要があるのか、そんな詳しいことはわからない。そこまでいったら"解釈"になる。

でも読解を勘違いしている人は、先の一文から「A氏はラーメンが嫌いなんだ」とか、「カレーパンは邪道だと思っている」とか、そんな屁理屈を読解力の高さだと信じている。他の場面でそれを示唆する描写があるのならともかく、ただ屁理屈をこねてそんなことを言いたがる。そんなのは読解じゃなく曲解だ。書かれたことではなく、書かれていないことを当てはめたがる。本当に疲れる。

書かれたことを理解できないことを「読解力がない」と言ったりするけれど、書かれていないことを勝手に読み取るのも読解力のなさではあるまいか。
解釈は人それぞれ、というのに異論はない。けれどそれは読解が誤りでない上での話だ。しっかりと読解した上での解釈なら、解釈が自分と違っていようと尊重できるのが望ましい。そうでありたい。


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