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【エッセイ】欲しいのは共感でも理解でもない

私が欲しいのは「受容」だ。

一つ前にクモ恐怖症についての記事を書いた。これだ。
この記事はふざけ調子で書いたが、この「クモ恐怖症」であることを話しても、受け入れてもらえたと思ったことはほとんどない。
「恐怖症じゃん」と笑ってきたり、「なんでもかんでも恐怖症ってつけりゃいいってもんじゃないでしょ」と否定してきたり、「クモは益虫なんだよ?」と耳タコな話をしてきたり、大体がそんな反応だ。
そういう反応が多いものだから、クモ恐怖症であることはネット以外でほとんど話していない。数少ない、受け入れてくれたリア友には感謝している。いい友人に恵まれたものだ。

念のため書いておきたいのは、クモ恐怖症だからといってクモが好きな人を否定する気はないということだ。好きになるようプレゼンしてきたら全力で縁を切るが。
人間はクモかヘビか、どちらかにゾッとするという説を紹介する手塚治虫の作品があった。両方苦手な人も、両方好きな人もいると思うが、私はクモが苦手でヘビが好きだ。でも、ヘビが苦手と言われても「ああ苦手な人もいるよね、私は好き」で終わりだ。

この「あなたはそうなんだ」という態度こそが「受容」だと思っている。
自分がどう思うか、じゃない。相手がそうであることをただ受け入れる。
言ってしまえば私は「自分がそうされたい態度」をとっているに過ぎない。だが大人になっても「他人と自分の感じ方は違う」ということを理解している人は意外と少ないのかもしれない、と思うようになってきた。

けれど。
もしかしたら「人それぞれ感じ方が違う、ということを理解できない人もいる」と受け入れられないからこそ苦しくなるのかもしれない。みんなが同じ考え方をするわけじゃあない。
その事実を事実として受け入れられるようになったら、もう少し心が軽くなるのかもしれない。

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