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日々の暮らしにクラシック音楽を
自己紹介
どうも、私は地図上の冒険と申すものです。
ビジネス(田舎でのものや、論業、農業など)や散歩について興味を持った分野に関するを日常的に投稿しています。
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今日の一杯
ご機嫌よ。
前回の記事はいかがだっただろうか。
私の予想以上の❤がいただけたことに非常に興奮していると同時に、今後も継続して「日々の暮らしクラシック音楽を」を投稿していきたいと思う。
週に何回の投稿が良いのだろうか。
私は毎日でも投稿することができるが、読者の皆さんにとって毎日はうっとおしいであろうか。
その辺に関しては是非コメントで教えていただけたら幸いだ。
さて、今回はラフマニノフについて記していこうと思う。
少し話はそれるが、この雰囲気は私の好きな感じだ。前回記事を作成している際、体のすぐそばにはコーヒーがあった。
そして、贅沢にもチャイコフスキーバイオリン協奏曲ニ長調を聴きながらの記事作成時間であったのだ。
この雰囲気、一言で表すなら・・・・画像で表現したほうがよさそうだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1690785184163-D9XOkW5Qe5.png)
まさにこれだ。この雰囲気である。
ちなみに彼の車はフィガロという車であるそうだ。
せっかくなので、クラッシックカーの世界についても覗いていこう。
![](https://assets.st-note.com/img/1690785353007-fObAc3dWiF.png?width=1200)
こんな車みたことないよ。と思った人も多いでしょう。
それもそのはず、約30年前に2年間のみ、2万台限定で発売された車なのです。
当時、予想を上回る数の予約が殺到したため、抽選だったという幻の車がこのフィガロ。
フィガロ(Figaro )は、日産自動車が1991年(平成3年)から翌年の1992年(平成4年)まで販売していた小型乗用車である。
Be-1(1987年)、パオ(1989年)に続き、初代マーチ(K10型)をベースとした同社のパイクカー・シリーズの第3弾であった。
YouTubeでもクラシックカーについて調べてみた結果、このような動画を発見した。
テレビ愛知・・・愛知県在住の人よ・・・・うらやましい
さて、本題に戻るとしよう。
ラフマニノフといえばピアノ協奏曲というのが私なりのイメージである。
作曲の経緯[編集]
ラフマニノフ、1900年代初頭
ラフマニノフの《交響曲第1番》は、今でこそ重要な業績と看做されているが、1897年の初演時には批評家の酷評に遭った[4]。私生活における問題も相俟って、ラフマニノフは鬱傾向と自信喪失に陥り、創作不能の状態となる。1899年にロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡ったラフマニノフは、ここでピアノ協奏曲の作曲依頼を受け創作を開始するが、再び強度の精神衰弱におそわれる。
しかし、1900年に友人のすすめでニコライ・ダーリ博士の催眠療法を受け始めると快方に向かい、同年夏には第2、第3楽章をほぼ完成させた。最大の難関として立ちはだかった第1楽章も同年12月頃に書き始め、1901年春には全曲を完成させた。初演は大成功に終わり、その後も広く演奏されて圧倒的な人気を得た。本作品の成功は、ラフマニノフがそれまでの数年間にわたるうつ病とスランプを抜け出す糸口となった。作品は、ラフマニノフの自信回復のためにあらゆる手を尽くしたニコライ・ダーリ博士に献呈された[5]。
![](https://assets.st-note.com/img/1690786074977-UYkBrEUZfm.png?width=1200)
ラフマニノフ(1885年)
1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、モルダヴィア公・シュテファン3世の孫で "Rachman" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫とされる[1][2]父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[注釈 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[注釈 3]が、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で子ども時代を過ごした。
4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳のとき、ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。
しかし彼は、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し[4]、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。
意外と髭もじゃではなかった。
実際に作曲者の顔を認知してから曲を聴くと、著者をイメージしながら読書しているような感覚になる。
これもまたクラシック音楽の楽しみ方なのだろうか。
では、また。
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