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消そうと思った

そういやこないだまで日記みたいなのを書いていたな、と思った。つまりこの日記なのだが、のぞいてみたらまだあった。自分が一人でやっているものなので当然といえば当然なのだが、本当に誰にも見られていないと勝手に消えたりするのではないかと、ほのかな期待にも似たかんじでアクセスしてみたが、やはりまだ残っていたのだった。

読み返してみるとびっくりするくらいたいしたことが書いてなくて、あきれ返ってアカウント削除ボタンを押そうとしたのだが、こんなものを消すためにちょっとでもカロリー使うのがもったいない気がした。たまに時代劇で剣豪が敵をバサッとやったあと「つまらない者を斬ってしまった」とつぶやく、まさにあれだ。

つまらない話をしてしまった。
つまらない話がまだあった。
つまらない話を消してしまった。
つまらない自分自身は消えずに残っている。
ちょっと、むなしい話ではないか。

これまでのちょっとした空白のあいだわたしは何をしていたか。仕事をしたり、やらしいことを考えたり、酒に酔っていたりした。つまりは平常運転。飾り気のない自分を演出したいわけではなく、ほんとうにそれ以外なにも起こらなかった。生きながらにして自動化してしまった人形みたいだったと言っていいだろうか。

人工知能が発達してあらゆる業務が自動化し、作業の効率化が可能になった昨今だが、なんのことはない、わたしのような人間は一足先に自動化していたのである。なにも考えず、なにも感じず、何の疑問もなくせっせと仕事をし、給料をもらって生活している。これが自動化プログラムといわずしてなんであろうか。

そうしてみると、人間らしい生活というのは、そうした決まりきったプログラムからの逸脱にあると言えるのではないか。あらゆる生活の営みにおいて、時間にしばられない。場所を特定しない、好きなときに好きなものを食べ、踊り、歌い、眠る。とつぜん笑い出したり、理由もなく盛り上がったり、旗を振ったり、火を焚いたり、町を走ったりする。そうかとおもえば栗ご飯を作って近所に配ったりする。

ひとつひとつのささいな営みが生の活動そのものだ。そのひとつひとつに心を配り、集中していなければならない。自分は生きている。今を生きている。そう繰り返し言い聞かせ、自身の生を確認するのだ。わたしという人間は何かの意図によって生成された、自動化プログラムの実行結果ではない。そんなふうに堂々と声高らかに宣言するそのために、栗ご飯を作るのだ、いま、この瞬間から。

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