遊楽カード

最初はたぶん21歳のある日。

たぶんと言うのは若かったから。

若い俺は若いからまだまだとうぶん若いと思っていたし、気にも留めずに過ごしたその日が、過ぎて振り返って思い出したいある日になる日が来るなんて知らなかった。

だから(曖昧でもろに色褪せてしまって、とても寂しいけど)たぶん21歳のある日、三茶の遊楽であいつと俺は初めて会った。

三軒茶屋はメディアの言うことを鵜呑みにすれば「おしゃれでちょっとハイソな若者の街」ということになるけど、地元の俺に言わせれば(ちゃんちゃらおかしいや)シンプルに「年寄りの街」だ。

帽子を被った爺さんとカートを押す婆さんが日がな一日メインストリートの茶沢通りを端から端へ往復し続けている。

駅前の一等地に昔ながらの衣料店があるけれど中に入るとババアがつける茶色の下着しかないし、二階に上がるとワゴンに敷き詰められた手ぬぐいが3枚200円で叩き売られていてこれをババアとババアが奪い合いひしめきあっている。

和菓子屋は店のジジイがレジを空けて奥に引っ込んでるからいちいち声をかけないと団子も食えないし、肉屋の持ち帰り総菜で一番美味いのは焼きそばだ。

パチンコ遊楽も年寄りの社交場だった。

昭和から時間が止まった化石みたいな店で看板は一見中華屋の色使い、かつちぐはぐな電飾で「YURAKU」、ビルの入口はデパートさながらの重いガラスの開き戸(開き戸!いまどき!と言ってももう15年前の話だけど)。

狭い店内は2フロア。1階がパチンコ、地下がスロット。椅子は全て足元が固定されたクッション性皆無のもので尻はカチコチ、なぜか鉄パイプの低い背もたれがついているから腰もカチコチ。

店員のほとんどがポマードで髪をまとめた中年男で(といっても4人くらいしかいなかった)、紅一点、オーナーの親族と思われる高齢の女性店員は綺麗な顔立ちにいつもきっちりと濃い化粧をほどこし、口調もたおやか、営業中もトイレ前の大きな化粧台で頻繁にメイクを直す女の鑑だったがほとんど髪が生えていなかった(この人は後に見かけなくなったが、常連の話では亡くなったらしい)。

「スロットコーナーはわざと薄明りと暗色の壁でカジノのようなムードを演出して…」なんて店が多いが(てやんでえ)遊楽は蛍光灯ばりばり(だぜ)。玉を持っての移動は禁止、共有NG、座り見、立ち見お断りなんてくだらないルール一切なしのなんでもアリアリの鉄火場だ(客と出玉はまばらだったけどさ)。

おまけにパチンコは2.5円、スロット5.6枚交換(この辺はわからない人にはわからないだろうけどこの話はそも分類としてそういうものだから気にしない姿勢がお互い肝要である)。

今ではどこの店にでもある貯玉システム(玉やコインを景品交換した際に端数が余ってしまう。会員カードにこの余りを貯蓄して次回以降の景品交換に使用することが出来るシステム)も導入してないものだから「遊楽カード」なんていう名刺大にラミネートされた手作りカードを渡してきて「このカード1枚でコイン7枚分とします」なんて素面とは思えないハウスルールを客に強いていた。

まあまあのサイズの邪魔くさいカードを大の大人がヤクルトと交換したり、財布の形を崩しながら8枚集めて(集めさせられて)は小景品と交換したり(させられたり)していた。

この店は本当に(本当に)粋だった。

夏場にドアーを開けるとガンガンに冷房を効かせた店内はもはや冷凍庫だから温度差で吹いた突風が客を出迎える(パチンコ屋というのはこのくらい冷房を効かせているのが粋である)。

愛想笑いした店員の「いらっしゃいませ」なんて一度も聞いたことがない。調子よく箱を積んだ俺が大当たりを消化していると暇を持て余した中年店員が後ろで勝手に見物した挙句に「うまいね」なんて話しかけてきて「てめえタメ口聞いてんじゃねえよ」と思いつつ「どもです」なんて、まあつまり遊楽はいつでも絶好調だよ。

その日、俺はわくわくしていた。

遊楽に初代HANABI(今現在もリメイク機がホールで活躍しているがここではこの「初代」のもつノスタルジックに俺が価値を見出しているため強調させてもらう)があると知ったからだ。

HANABI(以下、花火)はアルゼが生み出したスロット4号機Aタイプの名機。通常時の小役狙いとBIG中のリプレイ外しによる技術介入、出目とフラッシュ演出の絡みによる大当たり察知、スタート音の「遅れ」、ノリオ、ゲチェナ、トリオレ(なにを言ってるかわからなくても大丈夫、大事なのはこの後の一言だけ)。多くのスロット打ちに愛された希代の大物アイドルだ。

俺がスロットを覚えた頃、すでに4号機の時代は終焉を迎えつつあった。俺がその存在を雑誌で知り「打ってみたい」と思った時には、ホールを席捲し一時代を築いた花火といえど現役稼働の店は本当に少なくなっていた。

「遊楽にあるじゃん!」前日の夜、トイレを借りに立ち寄った俺は地下カウンター前、中央、6台(たぶんね)の花火が作る宝島を見つけたのだ。

明けて昼過ぎ、種銭(博徒の軍資金の正式名称)を握りしめ(種銭は例外なく「握り締める」ものだ)、自転車で爺さん婆さんを縫うように茶沢通りを抜け、遊楽の重いドアーを開き、鏡張りの狭い螺旋階段を駆け下りて、ようやく俺は念願の花火とご対面した。

初こすり(「打つ」ことを俗な言い方で「こする」と言う場合もある)にひどく胸が高鳴ったのを覚えている。

ところで宝島には先客が一名、あいつが花火を打っていた。

背格好や年齢は俺とほぼ同じくらいだろうか。通った鼻筋にサングラスをかけ、整えた眉、やんちゃな雰囲気もあるが、粗野ではない。肌の綺麗な男だった。

2台離れていたが、すぐに俺たちはお互いを意識し合った。

花火は技術介入機。通常時から毎ゲーム目押しが必要である。ミスをすれば小役を取りこぼす仕様になっておりこぼせば数百円、大当たり中の目押しミスはタイミングによっては千円以上の損失を生む。また大当たり自体も成立ゲームで必ず告知されるわけではないので、見逃せば無駄に回すことになる。要は下手くそが損をするゲーム性だ。

あいつ、俺より上手いのか?

以心伝心。お互い、確実にそう思っていた。

お互い数回の当たりを挟み、横目で実力を確かめ合っていた。

「どうやら似ったかよったかだな…」

後に俺はパチンコの専業(プロの打ち手はしばしば「専業」と名乗る。これはたぶんに世間に対する後ろめたさと自分のプライドがせめぎ合った結果としてこの表現に落ち着く)として20代の大半をホールで座って(職人意識の高い専業は仕事をすることを「座る」と言う)過ごすことになるし、それにともなってスロットも本職には劣るがそれなりに打てるようになる。

しかしこの時点ではどこにでもいるスロット好きの兄ちゃん(あんちゃん)なわけだから俺もあいつも大した腕じゃなかった。

「いま遅れたんじゃね?」

最初に声をかけてくれたのはあいつだった。遊楽はうるさいBGMが(パチンコ屋のくせに)ほとんどかかっていない。あのたった6台の宝島にはわずかに波音のようにリールの回転音だけが聴こえていた。

「まじ?よく聞こえたな」

ホールではため口が基本だ。どこの馬の骨の集まりなわけで馬の骨が馬の骨に舐められるわけにはいかない。

花火の「遅れ」。レバーを叩くと同時に鳴るはずのいつものスタート音がわずかに遅れリールが一瞬はやく回りだす。それはチェリーorボーナスが確定する甘美な瞬間。

メーカー側が仕込んだ演出なのか、それとも意図せず生まれたバグなのか。遅れは多くの打ち手を花火の虜にした。

「いや、聞き違いかもわかんないけど」

左リール上段に暖簾、聞き違いじゃないなら一確、挟んで右ノリオ、ナメコテンパイ。

目を合わせて「熱くね?」

中リールチェ・コ・チェ狙い(ほら、見られてるから赤七の上の氷だと男がすたるでしょ?)当然の氷揃わず。1枚掛けで右リール中段にドンちゃんがピースで止まる。ビッ確だ。

頭上の赤い箱を取り、下皿のコインを移す。遊楽の箱はぎちぎちに詰めば2000枚以上入る四角い箱だ。いまどきの5号機に迎合したさら盛り700枚の軟弱な箱とはちょっと格が違う。

あの日、5、6時間は打ったろうか(所詮スロ好きの兄ちゃん、専業でもないのにそう長くは打たない。まして遊楽の椅子は拷問器具なのだ)。コインを流す頃にはすっかり話す仲になっていた。

よく来るの?とか、こないだいくら勝ってとか、後から出されてとか

そんな話。

あいつとはその後ホールで何度も顔を合わせて花火を打った。

並んで打ったこともあるし、お互いの当たりを揃えてはしゃいだこともある(スロット打ちはこうして親愛の証を立てる)。先に当たったほうが自販機で缶コーヒーを差し入れたりもした(ところで俺はキリンのFIRE微糖が一番好きな缶コーヒーなんだけど、これは遊楽の自販機で初めて買ったその日から変わらない。かかりつけの歯医者に控えるよう忠告されたこともある。それでも専業時代は験を担ぐように毎日ちびちび飲っていた)。

ホールには常連がいる。いつも見るやつら。いつも見るけど、どこに住んでいて、何をしていて、いくつなのか、何も知らない。誰も知らない。名前も知らない。聞かない。呼ばない。

あいつにも一度も呼ばれたことがない。ホールの住人はそういう術を身につけている。

ようとか、出てるじゃんとか

名前を避けて話せる。

声に出すことはないけれど、ホールの住人は常連にあだ名をつけているものだ。禿げのおっさんは「タコ」、いつもウエストポーチのおばさんは「ポーチ」、野球帽の兄ちゃんなら「キャップ」という具合だ。

俺はあいつのことを「サングラス」って思っていた。サングラスいいやつだなとか、サングラス今日調子いいじゃんとか、サングラスもうやめときゃいいのにとか、サングラス今日いるかなとか

気づくと俺は専業になっていた。その話は省くけど、専業になるということは楽しいとか好きという感情から離れていくことを意味し、専業になる努力とは正にその離れようとする行為そのものの中にある。

俺は専業になるためにとっくに遊楽を捨てていた。残念ながら遊楽はプロが刺さる(プロが狙いを定めて通うことを「刺さる」という)店じゃなかった。

東京近辺の繁華街の数百のホールをまわったし、「食える」と聞けば県外も通勤1時間半までならどこだろうと座りに行った。面白くない台も勝つために瞼の裏に焼き付くほど打った。タバコを吸わない俺がスモークになるまで煙に燻され続けた。大当たりで一つも喜ばなくなった。連チャン中はいつも「早く終われ、帰りたい」それだけだった。

数年間、数字だけを追いかけて数字を積み上げて、俺の20代はコインサンドに吸い込まれる千円札のように溶けた。

ずいぶん経っていたと思う。5年か、6年か。

夕暮れ時、雑多で哀愁ただようすずらん通りを抜ける途中、気まぐれに裏口から久しぶりに遊楽に入った。

開店の午前10時にはほんの数十秒だが裏口のほうが先に開く。遊楽通はすずらん通りに面した裏口から入店するものだ。

懐かしさを噛みしめながら地下スロットコーナーをぐるり。

相変わらずまばらな出玉と客付き、かつて花火があった島はとうに新台と入れ替わっていた。

帰ろう

振り返ると、サングラスが立っていた。

冗談だと思うかもしれないが数秒見つめ合ったあと、俺たちはあの島の前で抱き合った。

あいつはたしかこんなことを言った。

会えてよかった。引っ越しをすることになった。この店にはもう来ないと思う。今日、ここにきたら会えるかもしれないと思った。最後にこれを渡そうと思っていた。もう俺は使わないから。渡すならお前だと思った

サングラスは俺に40~50枚の遊楽カードを手渡してきた。こぼれ落ちそうな大量の遊楽カードを両手で受け取ると短い挨拶をして俺たちは別れた。

あれからもう10年は過ぎたろうか(信じられない、信じたくないけれど)。あの後、俺はプロを廃業して数度遊楽で遊び打ちをしたがやはりサングラスに会うことはなかった。

あんなに粋だった遊楽も(くだらない)時代の波にのまれて俺のようなファンに惜しまれながら数年前に幕を下ろした。

俺には名前も、年齢も、住んでいるところも、なにをしていたのかもわからない、二度と会えない友達がいる。

きっとあいつも、俺にあだ名をつけていた。














誰もがあなたのようなら僕も幸せです。