80歳の母に贈る─『線は、僕を描く』
読んでいると、父の隣で嗅いだ、墨の香りが漂ってくる。
花卉画(かきが・花や草木の絵)が出てくれば、水盤から伸びる母の生けた花が目に浮かぶ。
線は、僕を描く
書店で手に取り、ためらいもなくレジへ持っていった小説。
特にドキドキするような展開ではないのに、読む手が、目が、止まらない。
本を多く読んでいる割に、小説を読むのはずいぶん久しぶりで。
想像力を実務だけに使っていると、情緒という泉がカラカラに乾いていく気がして、今年はたくさん小説を読み、たくさん映画を観ようと決めた。
その最初の一冊にふさわしい本だった。
色や、香りや、音が見える本
書の師範だった父は人に教えることはなかったけれど、座卓には常に、硯箱と無造作に立てられた筆があった。
自宅の二階には、毎週土曜になると華道を教える母の生徒さんたちが来て、花だけではない枝や葉の香りが充満した。
幼い頃通った近所の書道教室の、美人でやさしい先生の白い手が半紙の上をするすると舞う様に、いつも憧れていた。
それらの情景が、物語に出てくる水墨画と一緒に脳内で鮮やかに再生される。
かさかさと半紙が擦れる音、パチンと枝を折るハサミの音、墨の黒、生徒さんたちの密やかで楽しげな声。
「景色を切り取って、その世界を花器に映すのよ」
母の声を思い出して、読み終わった本をすぐに、300km離れた故郷でひとり暮らしをする彼女に送った。
「墨の香りがするお話ね」
80歳になった母は言う。
若くみずみずしい物語のなかに、幼い自分と若い両親を重ねて
「小説はいいな」
と今更ながら思う。
情緒の泉はすこし、潤ったみたいだ。
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