見出し画像

人生を四季に喩えたら

初秋の鞍馬を訪ねた。大学生になり離れて暮らす次男が所用で帰省し、突然貴船神社に行きたいと言いだすのでお付き添い。
叡電で行く山道は、夏の名残の目に鮮やかな緑の森の中に、少し色づき始めた紅葉があった。シルクのような花弁の秋明菊やベゴニア、美しい秋の自然が出迎えてくれた。
急に気温が下がり朝晩冷え込むようになった京都・奈良。来週にはもっと紅くなるんだろうな.…。

わたしは星を読む仕事をしている。ホロスコープは幾つもの基本法則の重なり合いとそれぞれの星の配置や角度から複層的にリーディングしてゆくのだけど、その中に『年齢域』という考え方・表現がある。惑星に人生の始まりから終わりまでの年齢を当てはめて読むのだ。
0歳〜7歳が月 8〜15歳が水星 16〜25歳が金星というように....詳細はここで説明しないけど、何もかもが人生始めてで見るもの知るもの全てが愉しいコミュニケーションの時代や恋の時代など、年齢域にはその時代に享受でき得る(またその時代にやり遂げたい)さまざまな経験が意味・特徴として充てられている。

わたしは今 木星期を生きている。人生を四季に喩えたら、おそらく現実世界の今の時期、初秋の頃だろう。夏の暑い盛りは終えてその余韻を残しつつも風は涼しく、体に纏わりつくような湿度はなくなる時期。さらりと心地よく、たのしかった夏を思い出しながらも美しい時の移り変わりを、穏やかな季節を、ゆったりと愉しむ...そんな表現で伝わるだろうか。

自分自身がそんな年齢域に入ったことにしみじみする。あとどれくらいこの世界を生きられるだろうか。そしてどれほどの人に出逢い、出来事に出会い、現実世界の秋をあと何度味わうことができるだろう。この地球という世界には紛争と事件に人生を掻き回され、今もその困難に泣き叫ぶ人々がいる。わたしの足元にも、忍び寄る戦争の影がもしかしたら...そう遠くはないのかもしれない。そうだとしたら今のわたし 何ができる?何がしたい?

占星術で観る年齢域は、その該当時代に該当する事柄を学び、消化・昇華して次の時代へと階段を上がるよう促されるのだが、その時代に学ぶべき事象の階段を、生き急ぐあまり一段二段と抜かして行こうとする人がいる。しかしそこには学び残しとしての刻印が押される仕組みになっている。学び残しはスルーされることはないのだ。その課題をやり終えるまで幾度でも、同じ学びを畳み掛けてくる(くれる、と表現しておこうかな)。わたしも夏の年齢域には幾度もやり直しをさせられた。学びの歩みが遅くてね...。そして時々慌てて遅れを取り戻そうと無茶するからやり直し。馬鹿ね。一歩一歩で良かったはずなのに、どうしてあんなに急いでいたのかな。(その理由は生まれる時に自ら携えてきたホロスコープによって説明される。驚くほど的確に。そしてこれまでの困難は自分の不甲斐ないせいっていうだけじゃなかったんだなーって、じんわりと涙が出る。)

秋になれば秋を生きる。次に来るのは冬だ。春や夏は来ない。大切な経験体験を胸に秋を進み、いずれ来る冬の時代にあったかい思い出を抱きしめて寒さを凌げるように...。

今 あなたは人生の四季の中、どれくらい季節を進んでいますか?現実世界の夏の終わりって、とっても寂しく感じない?愉しいことはみーんな終わってしまったような....線香花火がポトリと落ちてあのチリチリと弾ける炎の花がスッと暗闇に消えてゆくような...その時気づくのは、あぁ、もっと遊んでおけば良かったなーとか、もっと自由な発想や行動で自分を生きたら良かったなーって....。そんな思いなのかもしれない。

偶然に訪れる機会を得た鞍馬の森の中で、今を生きることを改めて考える瞬間。二度と戻らない時間。人生ってあんまり長くないなって思った。

あなたの人生はあなただけが自由にできるもの。今をめいっぱい、愉しんでね。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?