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ルバート/ヨルシカ(ディスクレビュー)

「ルバート」は「自由な速さで」という意味の演奏記号。演奏記号とは、古いクラシックなどの、楽譜しか現存していないような楽曲を演奏する際にも参照され、曲のテンポや演奏の方法を解釈するための記号である。曲の速さや、時に心持ちだったり、曲に対する向き合い方までを指示するものもある。そこには作曲者の曲に対する想いだけではなく、その曲を紡いだ日々の気持ちや感情や思い出が乗せられていると思ってしまうのは期待しすぎだろうか。
さあ始めよう、と言わんばかりに手を打つ一音から始まる本曲。しかし、曲を聴き進めるうちに、その手を鳴らす音は、始まりという意味だけではなく「手を打つ」や「締め」のように、ひとつの終わりや区切りを示す決別の証なのかもしれないと思い至る。
「あ、」の声で華々しく幸せなイントロが消え、自分自身の中に思考が潜っていく。イントロはホーンをメインに、基本となる音階は降りていくのに心は昇っていくような幸せな空気を持つのに対し、メロディーが始まったとたん、物悲しくも複雑な響きを持つテンションコードと呼ばれるコードを鳴らすギターが、イントロと同じように音階を降りていくことで、その中に心が落ちていくような、どこか寂しい空気を感じる。
そんな寂しい空気で振り返るいろんな思い出のなかで、楽しかった瞬間や苦しかった期間で感じたことを表す感情に対応した言葉を探していく。感情は感情だけでは存在しない。そこには必ず思い出があり、そこには必ず自分も含めた誰かがいる。
昔の日記に書かれた当時の言葉や感情は、たんなる言葉としてではなくて、そのときの心の動きを、鼓動のリズムを、駅までの足どりを思い出させる。それはまるで五線譜の欄外で曲の演奏の方法を表現する演奏記号のように、幸せだと感じていた自分を表現しすぎてしまう。曲が進むにつれて「誰かが笑ってる」から「あなたも笑ってる」に変わる「ポップじゃないメロ」は、そんな浮かれていた自分のいろんな感情で、ポップで誰かと共有できるものだと信じてきたけれど、どうやら悲しい感情や思い出っていうものは誰かと共有するものじゃなくて、自分自身の体に刻まれて、そうして記憶の中から薄れて忘れていくものなのかもしれないと、「楽しい」と無理やり繰り返すなかで辿り着く。
神様は急速な変化を自分に求めてくるし、お日様は決まった時間に決まったように同じ場所を行き来する。生活や人生は五線譜のように決められたものではないけれど、そのなかに日々を生きるための記号が隠されている。自由な速さで、自分らしく生きていければいい。そんな願いや祈りが込められた、誰かを思い出しながらまた繰り返す日々を送っていける、人生の讃歌。

テンポ・ルバート: tempo rubato)は、訳せば「盗まれた時間」という意味であり、本来的には音符音価の一部を奪い、他の音符に付与することを意味していた。したがって全体のテンポは変化しなかった。19世紀以降ではこの概念は退化して、柔軟にテンポを変えるという意味で用いられるようにもなった[1]

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