動画教材はあくまでコンテンツの一形態だ
コンテンツの良し悪しがすべてを決める
勘違いをしないでいただきたい。
動画教材にしても、電子書籍にしても、オンライン講座にしても、それらはすべてコンテンツのアウトプットの形を変えたものに過ぎない。
元となるのはコンテンツであって、これが社会の役に立つコンテンツか否かによって、売れるものになるか否かは決まる。
たいしたことのないコンテンツを動画にしたから売れた、ということはない。
コンテンツはすべてアウトプットする
ストアカの講師陣などを見ているとよくわかるが、世の中役立つコンテンツを持っている人はいっぱいいる。
しかしそれを社会にアウトプットしている人は一握りだ。
講師業などの形でなくても、自分の握っているコンテンツを内に囲い込むことが稼ぐ秘訣だと考えている人が多い。
たとえば動画の作り方など。
受注で素晴らしい動画を作れる人は数多い。
しかし、動画の作り方について尋ねると「それはウチに頼んでくれたら作りますんで」と言って答えない。
人に伝えたら自分の価値が下がると思っている。
それでも最近の風潮として動画クリエイターはYouTubeなどで自分の持っているノウハウをどんどんコンテンツとしてアウトプットする人が増えた。
情報過多の時代とよくいわれる。
世の中に情報が溢れている時代において、自分のコンテンツを秘匿することは意味がない。
コンテンツは社会にアウトプットすることによって、はじめて価値を持つ。
ノウハウがコンテンツでない例
もうひとつのパターンとして、アウトプットしようとしても出来ない例がある。
たとえば、素晴らしいノウハウは抱えているのだが、それを人に伝えることができない人がいる。
一番の例は言語化できていない場合だ。
自分が何をどのように考えて実行しているのか、言葉にすることができない。伝えられない。
こういう人は仕事はできるが、たとえば会社の後輩であってもその仕事のやり方を伝えることができない。
結果、その仕事はその人にしかできないものになる。
いわゆる「属人化」だ。
その人が引退したらそのノウハウは社会から消えてなくなる。
非常にもったいないことだ。
コンテンツの基本は言語化すること
動画という手段をとっても、他の手段であっても、言語化がコンテンツの基本である。
なぜなら、言葉にすることができない内容は、動画にすることもできないからだ。
作業中の手の動きを動画で撮影して記録することはできるだろう。
だが、何を考えてそういう動きになっているのか、どういう判断をしているのか、それが伝わらないとコンテンツではなく、たんなる記録映像でしかない。
私の主観だが、ひとつのことを極めた職人さんほど、素朴な言葉であっても伝わるように語られる。
言語化がちゃんと出来ているのだ。
動画を作るならまずコンテンツを言語化する
動画教材よりはずっと手前の話をあえてしているが、動画であれ講座であれ書籍であれ、社会に役立つコンテンツを作る人は、できるだけ言語化をする訓練をしたほうがよい。
動画を作る前にまず、その骨格であるコンテンツを作るべきだ。
しっかりした骨格ができたら、それに肉付けをする。
その肉付けが、動画化であり、書籍化であり、講座の構成である。
コンテンツの骨組みがしっかりしていれば、どんなアウトプットをしても役立つものになる。
ワンコンテンツ・マルチアウトプット
これからは、講師だとか、作家だとか、動画教材の作者だとかいう区別は必要なくなるだろう。
要はコンテンツホルダーであって、自らの持っているコンテンツをさまざまな形でアウトプットしているだけ、ということだ。
そのひとつの形態として動画教材というかたちがある、ということをぜひ覚えていただきたいと思う。
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