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あの場所には届かない。

「なにしてるの?」
 仰向けに寝そべったまま、青臭い芝生とむせかえる土のにおいに満たされたままうつらうつらと眠りかけている俺に誰かが声をかけた。

「午前中に雨が降ったから、背中がきっと湿ってしまっているわ」
 くすくすと可笑しそうに笑う女性ひと。どこかで逢っただろうか、名前が思い出せないがなんだか懐かしい感覚。

「いいんだ。少しくらい」
 素足のままこちらへ向かってくる彼女に、座るスペースをあけるように投げ出した手足を少しだけ、ほんの気持ばかり胴体へ引き戻した。

「そう、あなたって昔からそうね」
 昔から、という言葉に不思議と違和感は感じなかった。そうか、昔から俺はそうなのかと逆に納得してしまうような説得力のある言葉の響きだった。

「何をみていたの?」
 考える間もなく彼女が俺の横へと腰をおろしてまた聞いた。そういえばその質問にはまだ答えないままだったなと、思いながら斜めしたから見上げる形で彼女の横顔を見た。

「空」
 俺はそうぶっきらぼうに答えた。我ながら芸も色気もひねりも、なにもない答えだと少し後悔した。
呆れるか聞き返すがされるだろうと踏んでいたのに、驚いたことに彼女は納得したようにこう返した。

「そう。そこにあるのに届かないものを見ていたの。空虚というものね」
 そして仰向けのまま、雲間から覗いた太陽のせいでまぶしさに顔をゆがめた情けない俺に視線を落としてまたほほ笑んだ。

「ねぇ。よく死んだら空の星になるなんていうけれどそんなのはウソなの」
 なんの話をしているんだろう。そう思ったけれど、俺はなにも言わずに逆光になった彼女のシルエットからする静かな声を聞いていた。少しかすれた、やはりどこか懐かしい声だ。

「空にあるのはただの水滴やごみくずや、そんなものだけ」
 俺の返事を待たずに、彼女は続ける。

「それとね。あそこへ行きたい、たどり着きたい、そう思う人の想いだけ」
 瞬間。俺のちょうど真上に茂った柿の木から、午前中の雨で葉に溜まった水滴が、必死に葉にしがみついていたがついに力尽きたと言わんばかりに俺の額へと一直線に落ちてきた。

「冷たい!」

 叫びながら弾けるように飛び起きた俺の横には、誰もいなかった。

辺りにはただ何もない空と、そこに揺れる木の枝と、そして、そこにあることすらもう長いこと忘れていた子どもの頃飼っていた猫の墓の跡。

「そっか。お前の声は少しかすれていたっけ」
 不思議と、気味悪くなかった。俺が孤独で泣いているといつも隣に寄り添っていてくれた。
今でも俺はあの頃のまま子どもで、あんな風に弱弱しく寂しく泣いているように見えたのか。

「あのね。どんなに見上げてみてもあの場所には届かないのよ」

「あなたの居場所は、あなたのその湿った背中がくっついている場所よ」

 まだ少し水分を含んだ風が、南から吹いた。

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