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家にいる妖怪のお話。
うちの家には『妖怪』がいる。
いや、その呼び方が正しいのかも分からないけれど、例えば他に『幽霊』とでも『物の怪』とも『何か』でもいい。
とにかく、『何か』家族以外のものが住んでいる。
幼心に「おや?」と初めて思ったのは4歳か5歳の時。当時保育園に通っていた私は共働きの両親と兄妹と隣家の祖母と暮らしていた。
元々奔放な人だった兄は小学校にあがってからは大人しく家にいるという事の方が少なく、私は人形やお絵描きや、一人遊びをすることが多かった。
そして、大人しく私が一人遊びをしている時必ず『何か』が視界の端をサワサワと動いていることに気づいた。
黒っぽかったり白っぽかったり、大きかったり小さかったりその時々で様々だった。
そんな風に書くと何とも悍ましい怪談が始まりそうなものだけど、実際はそんなことはなくて、その『何か』は視界の隅でモゾモゾしたりサワサワと蠢く以外は何もしない。本当に、何もしないのだ。
なので、初め怖がっていた私もそのうち慣れてしまい「あ、またか」くらいになって久しい。
名前を付けてしまうほどの愛着もないけれど、何となくいると安心するような(正直、害虫の方が実害という意味ではもっとずっと怖い)、そんな妙な距離感だった。
名前を付けるほどでもない、とは言うもののいつまでも『何か』と呼ぶのも何となく申し訳なくて、そのうち『妖怪』と呼ぶようになった。
なので、冒頭に戻るが、
「うちの家には『妖怪』がいる」
のだ。
25歳を過ぎて実家を出るまで、私以外の家族にその存在の有無を確認したことは終ぞなかった。
認識されているのだろうか?と思うこともあったが、実際いるかどうかそもそも怪しいものを「いるよね?いたよね?」と他人と答え合わせしたところであまり意味がないように思う。
「いるんじゃないかな~?まぁ、気のせいかもしれないけれど」くらいがちょうどいいのだ。
どちらかというと夢想家・妄想家の自分みたいな(所謂 中二病の)人間にとっては、『妖怪』とか『幽霊』は居てくれたほうが面白い!というものだった。(面白がるのもどうかとは思うけれど)
自分の年齢が上がれば、日々の事に追われそのうち『妖怪』なんてモノのことも忘れて何も感じなくなってしまうのかなぁ、と思っていても、実家へ帰省するたびやっぱり『妖怪』は相も変わらず、視界の端っこをモゾモゾしていた。
他に何もせず、ただモゾモゾとサワサワと蠢いていた。
もっと物知りの人に聞けば科学的に説明が出来てしまうのかもしれない。
『妖怪』なんて居ないと証明して出来てしまうのかもしれない。でも、そうしてしまうにはあまりに愉快で、あまりに無害で、ならば放置したい。
一体いつまで『妖怪』がそうしていてくれるのかを、何となく確かめたい。
もし、自分が生まれるよりずっと前から居たのだとしたら面白いし、自分が死んだ後も誰かの視界の隅っこでモゾモゾしていたらもっと面白い。
「あ、いるな」と誰かしらに認識され続けていてほしい。
独身仲間の女友達と飲んで帰った夜、他の家族はみんなとうに寝静まった家の中でひとり台所の小さな灯りだけを点けて透明なグラスになみなみと注いだ水を飲み干す時。
横にある冷蔵庫の前を『何か』がサワサワと動いた。「ゴキブリ?!」と小さく悲鳴を上げて身構えると、そこには何もいない。
「あぁ、なんだ『妖怪』かぁ・・・じゃあいいや」
もう一杯、グラスに水を注ぎながら明日のスケジュールを脳内で反すうする。朝は何時には起きて、午後は誰々に会って、夜ご飯が外食だから朝と昼は控えめにしないと、などと考える。
今度はダイニングテーブルの方でゴソゴソと物音がした。ハッとして視線を送ると、御年18歳になる実家の老猫だった。
彼女もまた、水を飲みに起きてきたようだった。年相応にヨボヨボしてはいるが、毛並みはいい。
「そろそろ妖怪・猫又になるのではないか?」とよく家族と話している。
「あんたも『妖怪』になるの?」話しかけたが、見事に無視された。
耳と尻尾だけが反応したので、聞こえてはいるようだ。老猫め。かわいいやつめ。
老猫に気を取られていると『妖怪』がまた視線の端を走っていった。物音もなく。
深夜の、ダイニングキッチン。
人間一人と、老猫と、あと、『何か』。
それが『何か』わからないので、敢えて呼ぶなら『妖怪』。
「うちの家には『妖怪』がいる」
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180823 記。
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