東日本大震災の日になると母は強かったことを思い出す

2011年3月11日は、東日本大震災

死者・行方不明者 約18000人、未曾有の災害だったことは、みなさんの知ることです

その日は、朝早くに父が亡くなったと伯父さんから連絡があり、2〜3日の仕事の段取りを整え、病院に向かう準備で自宅にいました。

大阪なのですが、グラグラと大きく揺れ始め、1分ぐらい続いたように感じた(9階なので地上よりは揺れ幅は大きいとは思う)

すごく近くが震源地と思いテレビをつけたら、東北沖とのこと

テレビ局のアナウンサーが 「海の近くの方は、逃げてください!」と何度も何度も叫んでおられたのが、今でも脳裏に刻まれています。

その後の映像は、目をつぶりたくなるような、光景ばかり。。。

東北の方には申し訳ないのですが、関西はいつもと何も変わらない生活を送れたので、父の葬儀も滞りなく済ませることができました。

さて、この父、酒癖が悪く 飲んだらおかしくなって、暴れるっていう、昭和の漫画に出てきそうな父で、私が10歳の時に両親は離婚

ある日、飲んだくれて働かない父の代わりに 朝から晩まで働いてた母の帰りが遅いと、騒ぎ出し、私が作った晩ご飯を ひっくり返した。

泣き叫ぶ私
オロオロする弟

いつもより騒ぎが激しいのを心配してくれた近所の人が、私と弟を非難をさせてくれた。
雨が降っていて、近所の人が傘をさして 野次馬になってみていた
その日から、大人になるまで、父の顔を見ることはなかった。

何十年経っても忘れられない光景

そんな中、女で一つで、二人を育ててくれた母には感謝しかない

毎日、朝から晩まで働いて、「しんどい」「疲れた」という 言葉を聞いたことがない。
鼻水が出てても、風邪じゃない!という(笑)

そんな母も86歳 最近は、「ちょっと疲れたな~」と口にするようになった

一緒に住もうといっても、「まだ一人でイケる」という(笑)
私にこき使われるのが、目に見えてるので 嫌らしい(笑)

少しでも長く、天寿を全うしてもらいたいです。

そして、東日本大震災の日になると 母の偉大さを思い出すのでした

そんな吞んだくれの父、
小さいころに父親が亡くなり、親戚に預けられて育ち、
家族との縁が薄かった人でしたが、
天国に行くときは、すごくたくさんの方たちとワイワイいいながら、行けたんじゃないと思います。

あの日たくさんの方が、訳も分からないまま亡くなってしまい、悔しかったと思います。

津波の恐ろしさ、
原発の 怖さ、(原発反対ではないですが、危険なのものとは認識しないといけないと思う)

後世に伝えて行かなけばなりません

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