サロン・ド・パリ、1819年
結局このメデューズ号の筏に私も魅せられてしまい、一回では書き切れなくなってしまいました。
このメデューズ号の記事を書こうと一ヶ月くらいはこの絵のことを考えています。
絵が納められているルーブル美術館には昔行ったことがあるのですが、この絵を見たときここまで衝撃はなかったので(大きい絵だなーと思ったくらい)意識の違いってすごいなと思います。
さて、今回はメデューズ号の筏がデビューした1819年のサロンについて見ていこうと思います。この1819年のサロンにもちろんアングルも出品しています。久々のアングルの絵に私も心躍って長くなってしまいました。
1819年のサロン
1814年にナポレオンが退位しており、ルイ18世が即位しています。そのため展示の後援はルイ18世となります。
ルイ18世はルイ15世(ポンパドゥール夫人など多くの愛妾を持った国王で有名です)の孫となります。つまりあの有名なルイ16世(妻である王妃はあのマリーアントワネットとなります)の実の弟です。ルイ17世は暫定的にルイ16世の息子が継いだのでルイ18世ですね。
この時は1300点近くの絵画、208点の彫刻、その他多くの版画や建築デザインなどがサロンに展示されてました。
この年のサロンで人気であった絵画を見てましょう。
このピグマリオンとガラテアはギリシア神話に基づく絵画となります。
現実の女性に失望していたピグマリオンは、あるとき自ら理想の女性を彫刻します。そのうち彼はこの彫刻に恋をするようになり、その彫像から離れないようになります。
次第に衰弱していく姿を見かねた愛の女神ヴィーナスがその願いを聞き入れて彫像に生命を与え、ピグマリオンは彼女を妻に迎えたというもの。(まあ女性としては何それ?みたいなお話ですが。。世界各国にこんな伝承ありますよね)
作者であるジロデはこの時ある程度地位の固まった画家でありました。はじめは新古典主義の画家として活躍しますが後にロマン主義へと変わります。しかし、実際に新古典主義とロマン主義が対立するころ・・・ちょうど、アングルとドラクロアの対決する1824年に亡くなるのです。
ジロデはエコール・デ・ボザール(今もある美術学校です)の教授を1816年から務めています。もしかしたらドラクロアを指導したこともあったかもしれませんね。
このジロデの作品は好評だったようです。ロマン主義に傾倒していたということですが、この絵は新古典主義の絵ですね。
アモルとプシュケも有名なギリシア神話です。
この羽が生えている男性が愛の神アモル、クピードとも言いますが愛の女神ヴィーナスの息子です。眠っているのが彼の妻であるプシュケです。
プシュケはある王国の王女で女神ヴィーナスよりも美しいとされた絶世の美女でした。これにヴィーナスが怒り何の価値もない男に恋をさせようと息子のクピードをけしかけますが、結局クピードがプシュケに恋をしてしまうのです。
プシュケは人間なので神であるクピードを見ることができません。絵のようにプシュケが寝ている間に彼はいなくなるのですね。
しかし、ある時プシュケは誘惑に負けてクピードを見てしまうのです。クピードは姿を見られたためプシュケの前から姿を消します。
プシュケは彼を探し回り試練を乗り越え最後は神となりクピードと一緒になるというお話です。
この神話は昔から絵画の題材にされてきました。ハッピーエンドだからでしょうか。試練ものだからでしょうか、人気な題材ですね。(というかヴィーナスが嫉妬とか。。いやーギリシア神話の神は人間臭くていいですね)
この絵を描いたピコもエコール・デ・ボザールの教授となり、たくさんの画家を指導しました。有名な画家だとギュスターヴ・モローがいます。
この時33歳くらいでしょうか、年代としてはジェリコーと同じくらいですね。
このアモルとプシュケはピコの代表作となります。この絵も新古典主義の絵ですね。
さてアングルのグランド・オダリスクです。この時の出品だったんですね。
この絵は1814年に描かれました。
ナポレオンの妹であるナポリ王妃のカロリ-ヌ・ミュラに発注を受けて描いたものです。しかし、ナポレオンが失脚したためこの絵はナポリ王妃の元には行かずに1819年のサロンに出品されたのです。
さて、アングルの記事を今後も予定しているのでこの絵について少し詳しく見てみましょう。
グランド・オダリスク
このグランドというのは大きいという意味です。91 × 162 cmなので、ほぼ等身大で描いているイメージですね。
ちなみにオダリスクというのはハーレムに仕える女性の事を指します。
オダリスクは18世紀から19世紀にかけてヨーロッパでオリエンタリズムが流行するにつれ、絵画の題材として好まれました。
ナポリ王妃のカロリ-ヌ・ミュラは前述したとおりナポレオンの2番目の妹です。ナポレオンの妹は3人いますがみんな美人だったそうです。
ナポリ王妃カロリーヌは皇帝ナポレオン1世の妹としてボナパルト家に生まれ、フランス軍元帥ジョアシャン・ミュラに恋して結婚。(この結婚ナポレオンは反対していたようです)
皇族となったミュラは当時南イタリア全域に広がっていたナポリ王国を与えられ、1808年に即位し、カロリーヌも王妃として君臨しました。
アングルはナポリ王妃を介して絵画界に変革を望んでいたのでしょう。そのためにはカロリーヌがこの絵を気に入るのが前提ですが、そこは自信があったのかもしれません。
でも、政変でせっかく描いた絵がお蔵入りになってしまった。アングルはそこでサロンにこの絵を出品するわけです。
アングルは写真の到来に絵画に対して危機を持っていました。絵画にしかできないことをしたいと恐らく試行錯誤していたんだと思います。
そこで描いたのがこのグランド・オダリスク。
サロンではこの不自然なプロポーションが、アングルの誤った作風とされました。しかし、アングルは、故意に背中と腕の線が長くなるよう線を引きなおし、女性の姿を優美に表現するため故意に不自然なプロポーションとしたのです。
上のカロリーヌ王妃を見ればわかる通りアングルは写実的な絵に長けている画家です。アングルは美しい背中を強調して描いたのです。要するにジェリコーだけでなく、アングルもこの年サロンに対し挑戦をしたのです。
この絵はサロンで批判を受けます。アングルの絵画にしか表現できない芸術的な試みは理解されなかったのです。
しかし、この絵は後の画家に影響を与えます。
この絵に影響を受けたとしてはオダリスクの絵を何枚も描いているマティスでしょうか。ちなみにマティスと仲が良かったピカソもアングルに影響を受けた画家ですが、ちゃんとドラクロアにも影響されてます。(マティスについてはマティス展に行って勉強するんだ!予定)
ちなみにピカソはアトリエにアングルのこの絵の複製を飾っていたそうです。
メデュース号の筏
このサロンでの金賞はメデュース号の筏でした。
ここまでサロンに出品された絵をみればこの絵がなぜ騒がれたのかがわかると思います。
この絵が歴史や神話の中の英雄の物語ではなく、実際に起きた遭難事件を扱った作品のためだったからです。そう政府が隠ぺいしたメデューズ号の悲劇をリアルかつ悲惨に描いたからです。
この事件については前回簡単に説明してます。復習してみてくださいね。
さてこの絵は生存者が救助された日を再現しています。遠くに救助船が見えると、イカダの前方の人々は希望に満ちてタオルを力いっぱい振っています。一方、遺体のあるいかだの後ろは絶望に満ちています。
この事件を隠ぺいしようとした王と政府高官は困惑し、ジェリコーに金賞を与えこの絵をルーブル買い上げ品とします。ルーヴル美術館は購入のあと、ジェリコーに買取料を支払わず、作品も展示することなく、倉庫の奥深くにこの絵を隠してしまいます。
失望したジェリコーは体調を崩してしまいます。しかしジェリコーは翌年、作品をルーヴル美術館から取り返してイギリスに渡り、同地で展示を行います。
メデュース号の体験を書いた本がイギリスでも売れたのもあると思います。またイギリスではフランスより先にロマン主義絵画が描かれていたこともあり、ロンドンでこの作品はフランス絵画の新しい方向を示すものとして受け止められました。
このメデュース号の筏にもろ影響を受けたのがドラクロアです。モデルを務めたくらいなので身近でその才能に立ち会ったわけです。1822年にダンテの小舟を製作します。
ダンテの小舟はその時の新古典主義筆頭だったグロに後押しされて入選しました。恐らくグロはすぐメデュース号の筏が頭に浮かんだと思われます。正当に評価されなかったあの絵に何か感じていたのだと思ったのと同時に時代の流れを感じていたのだと思います。
ジェリコーは1820年から1822年までイギリスに滞在しますが、フランスに帰国し体調を崩し1824年に亡くなってしまいます。
亡くなるときに「まだ何もしていない」と言ったそうです。。。
その原因としては落馬などのケガが原因だとされています。
メデュース号の筏はジェリコーの死後またルーブル美術館へ戻ってきます。その様子は他の画家の描いた絵で確認ができます。
ジェリコーの早すぎる死にドラクロアはショックを受けました。
そしてこの早世な友人の意思を継ぐかのようにサロンを驚かしたあの絵を作成するのです。。
というわけで次回はドラクロアの代表作の一つを見ていこうと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?