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『メデューズ号の筏』1818年-1819年,テオドール・ジェリコー

このメデューズ号の筏を描いたのはドラクロアと同じ門下生であり、友人であるテオドール・ジェリコーです。
ドラクロアに多大な影響を与えたのが今日のこの一枚となります。

本来であれば日本画の記事を先週UPする予定でしたが諸事情があり掲載をやめました。近いうちに掲載できればな・・・と思っています。

さて、ジェリコーについてですが、なかなかしんどく・・・記事を書き上げられませんでした。。今回の絵はジェリコーの傑作ですが、調べれば調べるほどなかなか進められませんでした。。

若干長くなりましたがどうかお付き合いいただければと思います。

テオドール・ジェリコー

1791年、パリで生まれ、当時、非常に人気の高かった動物画家カルル・ヴェルネの工房に入り絵画を学びました。

『モスクワの戦いのナポレオン』カルル・ヴェルネ
馬を描くのが上手い画家だったそうです。ただ、ジェリコーはもっと躍動感のある馬が描きたいと思っていたそうです。


その後、新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランの元に弟子入りします。この時にドラクロアと出会うのですね!
ドラクロアについておさらいしてみてくださいね。

ルーヴル美術館で新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドの作品や、ルネサンス期ヴェネツィア派の大画家ティツィアーノ、カラヴァッジョ、ベラスケス、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど過去の巨匠らの模写をおこない、激しい明暗法による劇的で写実的な表現による自身の様式を確立していきます。

『突撃する近衛猟騎兵士官』テオドール・ジュリコー、1812年
若干21歳の時の絵です。素晴らしいですね


この『突撃する近衛猟騎兵士官』でサロンデビューを果たしました。馬が主人公であるこの絵、ジュリコーは馬が好きな画家でした。


この当時ナポレオンはワグラムの戦勝、ジョゼフィーヌとの離婚、マリー=ルイーズとの結婚、ロシア遠征、モスクワ撤退というように、公私ともにめまぐるしい戦いを重ねていました。そして美術の分野においては、新古典派とロマン派の両者が互いに競っていました。

『アトリエの若い男の肖像』1819〜1820年
自画像ですね。ジェリコーは裕福でハンサムでした。確かにかっこいい〜!
背景に置かれている静物をみるとメデューズ号を制作していた頃だと思えます。


ジェリコーは1816年から1817年にはイタリアに行ってます。この時、ミケランジェロに影響を受けたと言われています。

『レダ、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)1822のドローイング後』

ミケランジェロの絵を写したものが残っています。これ、今は紛失している絵なんですよね。同じタイトルのものをダ・ヴィンチも描いていますがこれも現存していなく模写が残っています。模写も素晴らしいのでオリジナルはどんなによかったのかと思ってしまいます・・・。

ジェリコーは1817年に帰国し、1818年から1819年までは今回の彼の傑作『メデュース号の筏』の制作に没頭します。

メデュース号事件

さて、絵に行く前に彼がこの絵を描くキッカケとなった事件があります。
その事件について簡単におさらいしていきましょう。

1816年7月2日、アフリカ・セネガルを植民地にするために派遣されたフランス海軍軍艦メデューズ号は、暗礁に乗り上げて難破しました。
400人を乗せた軍艦の船長は、ショマレーという名の海軍将校で、王の側近という理由で任命された天下りでした。さらに、金を受け取って定員外の人を乗せたともいわれています。

船が沈没する前、乗組員たちは急いで救命ボートに乗り込みました。しかも船長が真っ先に脱出したそうです。
ボートに乗れなかった残りの149人は、イカダを作らなければなりませんでした。補給品のない状況で嵐に遭ったイカダは、当然生き地獄になりました。飢餓、脱水、疾病、暴動、狂気、殺人、自殺、果ては食人行為まで起こりました。
13日間の漂流の末に救助された生存者はたった15人だけでした。

事件は国際的なスキャンダルとなります。ナポレオンの失脚によりようやく力を取り戻したばかりのフランス復古王政にとって、非常に大きな困惑の種となりました。

メデュース号の筏

では今回の1枚を見ていきましょう。

『メデュース号の筏』1818年~1819年、テオドール・ジェリコー

1816年、難破事件の報告書が一般に公開されるとジェリコーはこれに熱中し、この事件を描くことで、画家としての評価を確立する機会にしようと思いついたそうです。

1818年ころジェリコーは、義理の伯母に当たる女性と不倫をした結果彼女が妊娠をしてしまい、伯父に不倫がばれてしまいます。
この伯父は画家を反対していた父とジェリコーの間に入り、ジェリコーを支援していた人でした。そして伯父の28歳年下の妻がジェリコーの相手でした。

ジェリコーはこの妻と不倫関係に陥りさらに妊娠させてしまうのですが、彼らの息子はジェリコーの父に認められず、ジェリコーが亡くなった後メイドの子供として認知したんだとか。。

『アレクサンドリーヌ』1818年
これがその相手と言われている伯母です。まあでも28歳年上と結婚というと父と娘のようなイメージもありますが・・・。そこにイケメンでてきたら確かにトキメクけど、不倫はいかんよ。


ジェリコーは頭を剃り、アトリエでこの作品制作にかかります。まるで修道院のように規律正しい生活を送ったそうです。

恐らくこの頃と思われる自画像です。上にある自信たっぷりなものと見比べてください・・・。

ジェリコーは綿密な取材をします。生存者に会い、また正確なサイズのいかだを再現しました。
死者の肌の色をできうる限り本物に忠実にとらえるため、病院に赴いて死体をスケッチし、瀕死の入院患者の顔を観察し、切断された手足を自分のアトリエに持ち込んで腐敗の様子を観察し 、病院から借り受けた生首を2週間かけてデッサンしました。

『メデューズ号の筏におけるカニバリズム』
こちらは習作です。配置などが違っていますね。
ジェリコーはどの瞬間を描こうか試行錯誤を繰り返していたと言われています。

ジェリコーは友人をモデルにしています。もちろんドラクロアもモデルとして参加しています。

ジェリコーは古典主義とは決別しようと強い意志をもってこの絵を描いていますが、いかだの上に描かれた人々は英雄を描く際の伝統に敬意を示して、健康的でたくましい姿で表現しています。

ジェリコーはこの絵を1819年のサロンへと出品するのです。
彼はこの絵が自身の傑作であるとして意気揚々と出品したに違いありません。しかし、この絵は一種のスキャンダルとなるのです。

さて、次回はこの1819年のサロンについてジェリコーの絵と共に見ていきたいと思います。







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