『フレデリック・ショパンの肖像』ウジェーヌ・ドラクロワ 、1838年
これまでずっとアングルに寄り添って色んな弟子を見てきましたがアングルといえば、ドラクロアです。
前回はリストの周りについて少し見ていきましたが、リストといえばショパン。日本ではショパンの方が人気がありますよね。。
ショパンの肖像画は何点かありますが、恐らく一番有名なのはこの絵ではないでしょうか。有名なのは肖像画が素晴らしいのもありますが、少し悲しい所以も持っているからかもしれないですね。。
ウジェーヌ・ドラクロワ
ウジェーヌ・ドラクロワは1798年パリ近郊でうまれ、ロマン主義の画家といわれています。
当時のフランス画壇は、ナポレオンの統治下で啓蒙の手段としても重用されていた新古典主義が中心となっていました。
この新古典主義の中心者がアングルです。
調和を重んじ、古典ギリシアやローマの神話画や歴史画に倣った新古典主義に対して、ロマン主義は人間の感情や個性を重視し、騎士道物語などの中世の文学や小説の場面、同時代に起きた出来事を主題としました。
わかりにくいですが、一般的には線の違いとも言われます。
ドラクロアとアングルの絵を比べるとアングルは線による明確な造形をし、ドラクロアはタッチによる形体把握をしたと言われてます。
ドラクロワは、ピエール=ナルシス・ゲランに師事し、エコール・デ・ボザール(今もある美術学校です!)で学びました。
ルーヴル美術館に足を運んで、とくにピーテル・パウル・ルーベンスの作品に感銘を受け、またイギリスの絵画に影響されジョン・コンスタブルの風景画などを研究したと言われています。
1822年に『ダンテの小舟』でサロンに初入選しました。大胆な構図や色彩が批判されるなか、新古典主義の重鎮アントワーヌ=ジャン・グロの後押しにより初入選します。この時、新古典主義のアングルはイタリアにいたんですね。
ロマン主義の台頭に対抗できる画家としてドミニク・アングルがイタリアから呼び戻され、1824年のサロンで初めて2人の作品がそろって展示されました。(この時のサロンの様子は今度書いてみようと思います。もう少し勉強します)
1830年にフランスではブルジョワジーが市民を先導し国王シャルル10世を打倒ました。このフランス7月革命がヨーロッパの革命運動に影響を与えましたが、芸術作品にも影響を与えました。
革命翌年にドラクロワはあの有名な『民衆を導く自由の女神』をサロンに出品します。またショパンは『革命のエチュード』(「12の練習曲」作品10の第12番ハ短調)を作曲しました。
フレデリック・ショパンの肖像
ドラクロアはジョルジュ・サンドを通してショパンと知り合います。
そもそもドラクロアも幼少期からバイオリンを習っており、音楽家になるか悩んだそうです。アングルもそうですが、音楽と絵画、芸術というものはやはり繋がるものがあるのですね。
ドラクロアは日記をつけていたので有名で、ショパンと初めて会った日ももちろん記録されています。日記には、1836年12月13日にショパンと出逢い、彼の人間性と芸術を高く評価し、生涯の友情を結ぶとあります。。
既にサンドとも親しい関係にあったドラクロワは愛し合う二人の姿をキャンバスに留め、1842年、43年、46年と3度に亘り、フランス中部のサンドの実家で夏の休暇を共に過ごしました。
そう上記にある通りこの絵はショパンとジョルジュ・サンドの二人の絵だったわけです。
現在は別々になっているこの絵ですが、ドラクロアのスケッチが残っていたことから、元は一枚の絵であったことがわかったのです。
繊細で内向的なショパンと、6歳年上で社交的かつ活発な作家サンド。
ドラクロワは、二人のこの場面を描くために、わざわざ自分のアトリエにピアノを運びこんだといわれています。
しかしながら、この絵画は完成することなく、ショパンとドラクロワが別れたあとも、ショパンが亡くなったあとも、ずっとドラクロワのアトリエに保管されていました。
その間なんと25年。。
ついにドラクロワの死後に発見されたものの、金銭目的で真ん中半分に切られ!ショパン、サンドそれぞれの肖像画として別々に売りに出されたのです。
「彼はまれにみる高貴な人間だ。私が会った最も純粋な芸術家だ」
そう記したほどショパンの人格を愛したドラクロワは、ショパンが亡くなった時に悲嘆の中でスケッチを描いています。
画家をめざしたサンドの息子モーリス・サンドが1840年から48年までドラクロワに弟子入りしたこともあり、サンドとドラクロワの交流は生涯続きました。
ドラクロアは生涯独身でした。。
友人たちに先立たれた後も精力的に作品を作り、その数は9000点をのぼると言われています!
さて、次回はこの時代の文化人について書いてみようと思います。
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