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露悪/悪趣味漫画の存在意義とは?――『タコピーの原罪』補論

はじめに

数日前に、『タコピーの原罪』について記事を書きました。

すると、公式マガジン?というものに選んでもらえました。果たして公式マガジンが何か知らないし、選ばれたところで特に何の影響もなかったので、結局よく分かりませんでしたが、誰かが読んでくれたのかなという事は何となく分かりました。

その後考えるうちに、悪趣味漫画について書かねばならないかなという気になったので、それについて書きます。それと以下の注意書きに書いてある事は必ず守って頂きたいです。

※1・男性成人向け作品を取り扱っているので、未成年の方は閲覧しないこと

※2・ショッキングな内容を多く扱うので、「ピュアな人」「現実とフィクションの区別がつかない人」「精神的に不安定な人」は閲覧しないこと

※3・『タコピーの原罪』をかなり批判しているので、ファンの方はそれを踏まえた上で読むこと

キーワード:ガロ系,オイスター,クジラックス,山本直樹,はらだ,宮崎勤,岡山虐待死事件,悪趣味ブーム,NEEDY GIRL OVERDOSE

悪趣味漫画とは

まず言葉の定義からですが、厳密に「悪趣味漫画」という単語は存在しません。「露悪漫画」という単語も存在しません。似ている単語に、「ガロ系」という単語があります。ガロ系とは、主に1980年代以降に漫画雑誌『ガロ』で掲載された、アングラ的な作品群の総称であると思います。ガロ系で代表的な作品は、『ねこぢるうどん』『少女椿』『四丁目の夕日』,根本敬作品,蛭子作品,山田花子作品等。随分と詳しいWikipediaのガロ系のページを見ると、沢山漫画家の名前があるが、これはトゥーマッチなのではないかと思います。糸井重里や魚喃キリコ、しりあがり寿といった作家達は、別にガロ系と称するような人たちではないように個人的に思います。あとガロの創立にも関わった白土三平については、彼の『カムイ伝』はこの1980年代以降のガロで発表された、アングラ漫画とは全く違うものであるように思われ、ガロ系ともまた少し違うのではないかという気がします。

話を戻すと、そうした「ガロ系」漫画には、従来のマンガの文脈には無かった、極めて露悪的で悪趣味的な描写が目立ちます。「ガロ系」はオルタナティヴ・コミックの日本版とWikiにあったのですが、確かにと思わされました。海外のオルタナコミックを私は知りませんが、たとえば1980~90年代の漫画のメインストリートに、『シティハンター』『動物のお医者さん』『るろ剣』『花より男子』『幽白』があったとするなら、『四丁目の夕日』『少女椿』といった作品がオルタナティヴ的な存在であったとするのは、何ら不思議な事ではないでしょう。

何事もそうですが、光があれば闇もあります。その闇として、ある意味燦然と輝いていたのが「ガロ系」コミックでしょう。

『少女椿 改訂版』,p99,著・丸尾末広,初版は1983年

「ガロ系」漫画の後にも、こういった「ガロ系」の影響を思わせる作品が多く登場します。私がぱっと思いつくのは、山本直樹の『ありがとう』。

これは、普通のサラリーマンだった父が帰宅すると、もうそこに家族の平穏な暮らしは存在しなかった、という話なのだけれども、この作品には「ガロ系」の影響をとても強く感じます。山野一の『四丁目の夕日』という、最もガロ系を体現しているような漫画がありますが、「幸せな日常が崩壊し、倫理的にギリギリどころか普通にアウトなレベルにまで人間の尊厳が剝がされていく」という物語の型が共通しています。東京都のご担当の方が見たら普通に有害図書入りする内容。

もう少し後に行くと、成人向け漫画にその潮流が受け取れます。クジラックス作品です。

↑これ単行本のリンクなのですが、クジラックス氏の代表作であり、もう彼自身二度と(時代的に)描けない作品であろう『ろりとぼくらの。』は、多くの人に衝撃を与え、エロ本業界に(多分)打撃を与え、かの東浩紀がコメントを寄せた、ロリ18禁漫画の極北の金字塔です。これも私は悪趣味漫画の一つとしてあげるべきと考えています。

物凄くハッキリと言ってしまうと、悪趣味漫画とは、人間が理性的な動物であるという共通前提を破ってしまうような、「身体を破壊するレベルの暴力」「対等な人間と見なさないような精神性」「女性や子ども,障碍者といった弱者に対する精神を破壊するレベルの性的なものを含める暴力」といったものを含んだ作品群を指します。というか悪趣味漫画って単語存在した気がしたんですけど、本当に無いんでしょうかね。私としては露悪マンガと表現したいんですが。

『タコピーの原罪』について

さて前回の記事で触れた『タコピーの原罪』ですが、この作品は悪趣味的な要素がふんだんに盛り込まれています。児童虐待・いじめが主に当たります。

『タコピーの原罪』第二話,p2,著・タイザン5

(引用元:https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496649851049)

たとえばいじめのシーンですが、主人公しずかちゃんの机の上に、沢山の罵詈雑言が書いてあります。明らかにこのいじめをしている人は、しずかちゃんを対等な人間だと見なしていません。いじめ漫画って過去に色々あった訳ですが、

『タコピーの原罪』のいじめはどちらかと言うとサブテーマ的で、数ある陰惨なことのうちの一つという印象を受けます。パフェの生クリームのように、他にイチゴやアイスクリームもあるよね、みたいな……。

いずれにせよ私は思うのですが、こういったイジメや、児童虐待など陰湿な社会的な問題を創作として扱う場合は、相応の覚悟が描き手に必要になると思います。つまり、「強いメッセージ性」が必要になってくると思うんです。『ライフ』が発表されたのは2006年です。2006年の年間自殺者数を知っていますか? 

出典:警察庁『自殺の状況 資料』(2020),p2

3万2,155人です。上のグラフを見れば分かりますが、1998年から2010年頃までは非常に自殺者が多かったのです。自殺者の内訳としては40代から50代の男性が多かったわけですが、当然若い世代の自殺者も98年以前に比べて増加しています。98年の国内銀行・証券会社の相次ぐ破綻、オウム真理教問題に阪神淡路大震災、インターネットの普及。愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件、山形いじめマット死事件。そうした時代を経て、「ライフ」は生まれました。この「ライフ」は少女漫画としては相当苛烈で、そしていじめ問題に真っ向から筆を執った、誰もが知る名作漫画です。いじめに関する少女漫画でヒットしたのは、この作品が初めてだったのではないでしょうか。「ライフ」が評価されているのは、当然、いじめを扱った最初の骨太の少女マンガという側面があります。

フィクションというものは、悲しくも現実とは切っては切り離せないものです。たとえば1989年の宮崎勤の事件以降、アニメやゲーム・漫画といったものが人に悪影響を及ぼすというイメージが出来ました。そしてこの宮崎勤の事件に影響を受けたと思われるのは、先に述べた『ろりとぼくらの。』です。フィクションは現実と呼応し、そのうねりを互いに受けながら文脈を作り上げていきます。では『タコピーの原罪』は、現実とどう呼応しているのでしょうか?

私は、何とも皮肉だなと思うのですが、つい数日前にある事件が報道されました。岡山虐待死事件です。

五歳の女の子が虐待で亡くなってしまう、しかも、もうこの女の子は死ぬしか道が無かったんだと思わされるような、鬼畜極まりない虐待をされていて、本当に言葉を無くすほど痛ましい事件で、この文を書いている今もこの事件の事を思うと頭痛がするレベルです。

『タコピーの原罪』は児童虐待・ネグレクトを扱っている訳ですが、『タコピーの原罪』における児童虐待シーンよりも、この実際の事件の方が、数倍苛烈です。別に酷いシーンを描いたもん勝ちとか、そんな低俗な事を言いたい訳では無くて、私としては、「児童虐待やネグレクトを自分の創作の道具に使って、大して伝えたい事も伝わってこない上に、他作品との類似点の多い作品を描いて、現実には自分の創作よりもずっと酷い児童虐待事件が起きてるんだけど、どんな気持ちですか?」って著者のタイザン5さんに言いたいです。

表現の極北としての悪趣味漫画

では、『タコピーの原罪』と『ろりとぼくらの。』は何が違うのか? これについては明確なのですが、『ろりとぼくらの。』は振り切って描いている上に、物語としての完成度が高いです。『ろりとぼくらの。』ではいたいけな少女が複数人出てきて、ワゴン車に連れ込まれて総じて男二人にレイプされるわけですが、これは、本当にフィクションとしての極北だと私は思っています。フィクションで表現出来る事の限界値。しかもその限界値が、非常に計算されて描かれている。女の子がどういった子なのか? そして加害者の心理は何か? それが高い画力で描かれている。しかもそれがロードムービー形式なんですよね。ニクい。

私は女性だし、女性である前に一人の人間だから、クジラックス作品を読んで、これで抜ける人って日常生活大丈夫なのだろうかとか色々考えますが、「表現の自由」が許されるその限界値として、そしてその作品の完成度の高さとして、『ろりとぼくらの。』は作品的な価値が高いと考えています。然し、もし自分の身内に仮に幼少期に性的な被害を受けた人がいたら、私の『ろりとぼくらの。』に対する印象が変わるような気がします。ただそれは非常に感情的な部分での話であり、これに関してはいくらでも議論の余地があると思っています。

また同じく表現の自由の極北にある漫画家に、オイスター先生がいらっしゃいます。彼の『人デ無シの宴』は、鬼畜18禁漫画のこれまた金字塔だと私は思っています。

これは百合的な関係で結ばれた高校生くらいの女の子二人組が、精神を破壊されるレベルであらゆる凌辱を尽くされるという作品です。鬼畜漫画として、読んでてげっそりするレベルの性的暴行を加えているのもそうなんですが、この二人の百合的な関係を、これでもかというくらい破壊するというのが、この作品のストレングスです。男性向け成人漫画って、結構ストーリーはおざなりになるものなんですが(そういう業界だからそれはそれで良い)、この作品は鬼畜表現というよりも、この物語が最も光っていると私は感じます。最後にヒロインは犬に犯されるのですが、そのシーンには最早カタルシスすら感じました。堕ちるところまで堕ちた、といった風な。凄みですよね。

また男性向け成人漫画だけでなく、BL漫画においてもそうした模索をしている作品があります。はらだ先生の『にいちゃん』です。

これは性的なゴア表現というよりも、小児性愛について扱った作品です。正直作品としてのクオリティはそれほど高くないと私は思うのですが、BLには往々にして「出会って好き合ってセックスして終わり」という一つの型があって、そういったものに歯向かう何か作者さんのやる気のようなものを感じます。

現代に忍び寄る悪趣味サブカルチャーの足音

私は漫画と同じくらい、と言うかワンチャン漫画よりもゲームが好きなのですが、最近『NEEDY GIRL OVERDOSE』というゲームがやや流行っているように感じます。配信者が多く実況動画を上げているのですね。

剣持さんと釈迦さん縦に並べるとちょっと面白いですね

それでこの『NEEDY GIRL OVERDOSE』なんですが、ゲーム系メディア4Gamerで企画を担当されたにゃるらさんに対するインタビュー記事が上がっていたので読んだんです。

そうしたら面白い記述があったんです。このゲームの発想の下敷きになったものとして、にゃるらさんはこう言っています。

 まず重視したのは,1990年代後半の美少女ゲームにあったアングラ感や理不尽さと,ミステリー的な要素でした。それを実現するために少女的な鬱っぽさや“心の闇”みたいなものを考えていったら,結果的に育成ゲームになったんです

私はこのセガサターンで発売された美少女ゲーム、そしてそれに付随するアングラ感というものを知らず、またザッと調べてもにゃるらさんがどういったゲームのどの部分を指してそう言っているのか分からなかったのですが、この「90年代後半」「アングラ感」というものは、「ガロ系」漫画の系譜を彷彿とさせるものがあります。またどうやら90年代のサブカルチャーは鬼畜ブーム・悪趣味ブームといったものがあったようです。

漫画から離れてサブカルチャー全体の悪趣味文化論をしてしまうと、現在ですら5000文字を超えているので、流石に省きますが、1980年代におけるガロ系漫画の潮流が、80年代末の現実の事件(宮崎勤の事件など)と呼応し、更には90年代に悪趣味ブームとして一つのムーヴメントになり、マンガやアニメ、ゲームといったあらゆるサブカルチャーに派生し、そして2022年の今、それに影響を受けたクリエイターが「悪趣味」系の亜種とも言えないかもしれないけど、その潮流にあるゲームを作り、それがプレイヤーだけでなく、ストリーマーやそのリスナーといった幅広い層に受け入れられつつあるとするならば、これはもう、非常に、極めて面白い現象なのではないかと私は思います。

歴史は繰り返すとよく言いますが、私はこの現象の場合そうではなく、繰り返したうえで、現在のサブカルチャー文化に無くてはならないインターネットの存在が組み合わさり、また別種のカルチャーを気づきあげているような、そんな気がします。

おわりに

すごく長く書きましたが、私は悪趣味漫画・作品に対しては以下のスタンスを取っています。

  1. 現実に起きている事件を踏まえているかどうか、既存作品を踏まえているかどうか

  2. 作者の伝えたい事があるのか、作品としての強度が高いか、創作の道具として悪趣味的描写をしていないか

個人的にはこうしたポイントを踏まえていない、たとえば『タコピーの原罪』は駄作かなあと考えています。どうでしょう、他にそういう意味で駄作って言うと、他にぱっと思いつくのは、『午前2時まで君のもの』なんですよね。BLなんですけど。

これは別に悪趣味的な描写がある訳では無いんですが、記憶喪失の主人公がいて、その記憶喪失に関する描写がゴミって言うか、ええ~って感じですね。恋愛の道具として障碍を扱ってる感じが透けて見えて、私は全然ダメでした。結局現実それで苦しんでる方、他の人と同じような社会生活を送れていない方がいる限り、それをネタに漫画描くって、本当に筆力を要求される事のように思います。

そうした創作における刃、マイノリティにしろ、虐待、暴力、強姦、何でも良いんですけどそういった事を刃として使うならば、それは研ぎ澄まされたものでなければならないと私は思います。

現実で五歳の女の子が、墓場に裸で目隠しの状態で立たされて説教され、女の子を監視するためのカメラが母親も黙認する形で家に複数台存在し、最後には低酸素脳症で亡くなってしまった、そんな女の子がこの世に確かにいたと言うのに、『タコピーの原罪』を読んで考察が捗るぜ、なんてそんな事は私には言えません。

どうか、創作者さんの刃が研がれますように。周りの意見に流されず、自分が真にテーマにしたい事を見つけ、それを表現するには何が必要なのかを熟慮し、感性を研ぎ澄ませ、それに溺れる事のない筆で以って、その人にしか表現出来ない新しい世界へと読者を連れて行ってくれますように。私の切なる願いです。

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