批判的検討能力

明日から院の講義が始まっていくわけだが、どことなくうれしいような、どことなくもう少し休んでいたいような不思議な気持ちだ。今のところは、数年ぶりに行ってきた歯科検診にて、虫歯が進行し過ぎて上顎の骨が溶けているという衝撃の事実を突きつけられ、めちゃくちゃブルーという思いしか無いのだがw 神経が死んでるだの、膿を出すために穴をあけるだの、抜歯だの、怖いフレーズばかり聞いてしまって、戦々恐々としてしまっている。

つくづく、学問的営みは、体の健康を礎として成り立っていると思わされる。体が健康でないと、そればかり気になってしまう。ぶっちゃけ歯が無くとも生きていけるが(社会的には無理だが)、その意味で、難病とともに生きる方は、どれほど大変なのだろうかと思うばかりだ。

批判的検討能力

院の講義に参加していた時の記憶として、批判的検討能力についてよく考えていたし、今もそう考える。

批判的とは何か? というトンでもなくデカい問いは脇に置いておき、ひとまず、「何が批判的検討能力なのか?」という問いを考えたい。

批判的検討とは、物事をうのみにしない能力であると私は思っている。それはskepticalという意味では決してない。世の中に無数に散らばっている情報を、出来る限り理論的、或いは歴史的(私は系譜的と言いたいが)に整理・分析し、その分析をもとに、現象にたいしてacademicに検討する能力であると私は思っている。

講義に参加してみて

私は自殺予防が専門領域なので、自分の専攻の子の中だと、多分一番よく知っているらしい。そういう視点で、自分がとっているとある講義(自殺がテーマになっている)に参加していると、みんなの考えが若干そこじゃないというか、たとえば一つのデータに対して検討する能力はあっても、更にそこを深く掘っていくことが無い。

いやこれは、みんなが恐らく関心のない自殺に、一回批判的な視点を持てるというだけで、すごいと言いたくなるような事ではある。あるのだが、あともう少し掘ってみるだけで、途端に面白い世界が見えてくるんだけどナ~~~~と、若干歯がゆい思いに駆られる。

例:日本の自殺の動機のうち半分以上が「健康問題」である(皆ここまでは考える、気づく)

→何故「健康問題」が半分以上なのか?(ここで止まる)

→「健康問題」は、身体的な病気や精神疾患、アルコール依存や薬物依存なども内包する(ここに至らない、調べない)

→アルコール依存から身体的疾患までを十把一絡げに「健康問題」として計上する事には何か意味があるのか?(私はこう考えている)

知識は力になる

最近よく思うのが、知識は力になるということだ。二月後半から今に至るまで、16冊ほど本を読んでいるのだが、そのすべてが私の血肉となっている。これは、これらの本に書いてある情報のすべてが私のものになっている、という事を意味しない。これらの本から派生した、興味や関心・疑問、そういったものを含めて私の血肉になっている。

たとえば、私は生田武志さんの『いのちへの礼儀』を読まなければ、家畜たちのいのちと人間のいのちについて思いを馳せなかっただろうし、

そもそも、千葉雅也さんの『現代思想入門』を読まなければ、哲学は高尚なもので私などが触れてはいけないものだという姿勢を崩さなかっただろう。

私は大学五年間通っていて、全く本を読まなかった。それは何故かと言えば、自分にとって学問は遠いものだったからだ。本を読むよりも、ソシャゲをやることや、家で寝ること、或いはスマブラをする方がはるかに大事だった。友達? はは……。

ぶっちゃけそのころの私自身と、メンタリティ、考えている内容の深さというか、そういうことは、あの頃と全く変わらないように思う。

だが本を読むことで、そこに根拠が備わってくる。自分がうっすらと考えていたことが、社会的・文化的・心理的……すなわち学問的に、どういったpositionなのかという事がわかってくる。間違っていたら修正してまた本を読めばいいし、合っているのならそのまま本を読み進めていけばいい。

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、本を読むごとに叩かれ、変容していき、自分の理論的背骨を支える力になる。何度も何度も本を読み、叩き、イデアーに近づくかごとくその力を修正させていく。しごく人間的な営みである。