「協働」という言葉のロマンチックさに酔わず、まっすぐ向き合ってみよう

「協働」はロマンチックで、使い勝手の良い言葉です。

「協働」を大切にしよう、と言ったら何か重要なことを言っているようで、しかし「平和って大切だよね」くらい何も言っていないようなものです。当たり前すぎて、それでなんだい? となってしまいます。「協働」という言葉の持つ前向きなイメージだけで語るのではなく、その中身を具体的に掴んで、意味のある「協働」を取り組んでみませんか。

「協働」とは声をつなぎ対象を再定義することだと考えます。まず声をつなぐというプロセスの部分について説明します。「協働」において「思考リレー型の対話」が求められます。正解を知る権力者に対しメンバーが正解を求める「答え合わせ型の対話」とは異なり、ファシリテーターがメンバーと声をつなぎ多声的に響き合うことで思考が積み重なっていくのが「思考リレー型の対話」です。

画像1

そして、この対話を通し、各メンバーがもともと持っていた対象の定義(イメージ)を再構築していきます。再構築には、新たな気づきを得て捉え方を変えるだけでなく、持っていたイメージを補完して確信を深めることも含まれます。必ずしも考え方が変わる必要はないということです。

これが、声をつなぎ対象を再定義するということの中身ですが、大学時代に私が映画製作に取り組んでいた経験を紹介しながら話を続けたいと思います。

小説家志望だった私が映画製作サークルに入った理由は、小説は(単純な意味で)一人でも書けるけれど、映画は一人ではつくれないからでした。今思えば、無意識のうちに個人のレベルでは到達できない「協働」の力に期待していたのだと思います。

実際、映画製作には監督、助監督、脚本、カメラ、録音、照明、役者といった役割の方々が集って行われます。自主映画においては多くの場合、監督が脚本も担当し、頭の中で描いた映像を脚本に起こし、それをスタッフで共有して実際に撮影をしていきます。これは言い換えれば、監督が撮りたいとイメージしている映画(対象)を、撮影という「協働」を通して再定義化していく作業と言えます。

画像2

当然、監督がイメージしていた通りのロケーションや役者さんが見つかることの方が稀です。では頭の中の理想像からどれだけ妥協するかが映画づくりかというとそうではありません。実際に目の前に現れてきた、光と陰、役者の身体、坂の傾斜、環境音、といったノイズをいかに映画の必然性として作品に取り込むかが映画づくりの醍醐味であり、監督の腕の見せ所です。

そこでは、先ほど挙げたようなスタッフがその場に応じて様々なアイディアを出し合っていきます。しかし、映画作品という一つの成果物をつくためにはどのアイディアも素晴らしいね、とは言っていられません。監督はスタッフを信頼し、アイディアを言い合いやすい環境を演出する一方で、速やかに決断をしていくリダーシップも求められます。映画づくりの現場は役者さんやロケ地の都合で限られた時間の中で撮影をせざるを得ません。そんな状況の中で対話と意思決定と撮影を繰り返していく、非常にスリリングな「協働」の体験だと言えます。スタッフもそんな中で自分の意見が通らなかったことに文句を言っていられないという、やや男性中心主義的な側面もありますが、監督がファシリテーターといて意見を聞く耳を持ってさえ入れば、結果として意見が反映されずとも納得してついていくものです。

むしろ求心性の低い監督というのは頭の中でイメージしたものをいかにそのまま撮るかだけを考えている人です。それは作品の良し悪しと必ずしも相関関係にあるわけではありませんが、「協働」という観点からは課題がある状況です。

まとめ直しますと、多様な役割を持つ他者が声をつなぎ対象を再定義していくことが「協働」の本質なのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?